ヒーメロス通信


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一瞬と永遠/小林稔・詩誌「へにあすま」より

2016年08月19日 | 詩誌『へにあすま』に載せた作品

一瞬と永遠

               小林稔

 

 

   α パリス、ノスタルジアの階梯

 

二千年の歳月を土に埋もれる試練に耐えたのち、人々の視線にさらされ、いま

わたしの視線が捉えた無名彫刻家が大理石に魂を吹き込んだ神像、その青年の

裸体に破片をつなぐ傷跡あり。しなやかな腰に少年の面影を残し、サンダルの

革紐がからまるふくらはぎ、すでに闘いを終え外されたそこから踵まで視線を

這わせ素足の先で留める。指がこころもとなく伸びて動き出さんとする様態に、

かつて少年たちの足をかたわらに見つめた一瞬の〈時〉は何度も反復されつづ

ける。かぎりなく人間に近づけて創ったという古代の彫像、それらに劣らぬ少

年たちの美しい形姿に似つかわしい魂を注ぐため、ノスタルジアの階梯をかつ

てわたしは昇りつめたが、わたしは彼らに何を与え何を授かったのであろうか。

神像の視線に正面から捉えられ、一瞬の姿を永遠の形相に変貌させた神の似像

をまえに、わたしは精神の羽搏きを感じて、しばらく立ち去ることを忘れた。

 

 

   β アルテミス、魂の分娩

 

エーゲ海の波のようになびく頭髪と清楚な面立ちがこれほどまでにわたしのこ

ころをつかんだことがあったろうか。異性との精神の分有はいかにして成立す

るかをわたしはいまだ知らない。わたしが背にした道を辿りなおさなければな

らないのは、この女神像に魂が呼ばれたからだ。身を包んだ波打つドレープの

下にどんなこころが潜んでいるのかを探りはじめてしまったからだ。天空の精

神という父性の〈精子〉と大地の子宮という母性の〈卵子〉からわたしは生を

受けたが、言葉(ロゴス)を求めつづけるわたしの旅は地上を〈さすらう〉と

いう宿命から遁れることはできない。詩がポイエーシスの賜物であるならば両

性がわたしに所有されている。魂の分娩は肉体のそれよりはるかに偉大である

と男たちを諭した知者の女性ディオティマを思う。美しく高貴で素性のよい肉

体を探し求め教育し精神の出産をしようと交わり、生まれたものを相携え育て

る。精神の分娩でもたらされる不死なる子どもは作品であるが、エロースの対

象となる少年を生むのは女性だ、という背理の糸を手繰り抜け出ようとわたし

は考えた、女性の魂の分娩とは、神々の恋とはいかなる営みであるかを。わた

しはうしろに身を構え、大理石の神像が定める視線の行く先を肩越しに追った。

 

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※「ディオティマ」はプラトン『饗宴』に登場する虚構上の人物である。



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