ヒーメロス通信


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西脇順三郎研究・ワークショップ「ひいめろすの会」からの報告・『ヒーメロス』7号

2012年02月06日 | 西脇順三郎研究
個人誌『ヒーメロス』7号2004年発行に掲載された記事より(無断転載禁止します)
小林 稔

第十回詩のワークショップ「ひいめろすの会」報告
平成十五年七月十三日・天使舎・午後一時半から五時

西脇順三郎研究
 (覆された宝石)のような朝
何人か戸口でささやく
それは神の生誕の日  
          「天気」

黄色い菫が咲く頃の昔
海豚は天にも海にも頭をもたげ
尖った船に花が飾られ
デイオニソスは夢見つつ航海する
模様のある皿の中で顔を洗って
宝石商人と一緒に地中海を渡った
その少年の名は忘れられた
麗な忘却の朝 
          「皿」

 十代ももうすぐ終わる頃、私は「アムバルワリア」に収められたこれらの詩に触れて、新鮮な驚きを覚えた。文学臭を毛嫌いしていた私は、なんとも自由な精神の羽ばたきを感じたように思う。振り返ってみれば、自然主義的な文学表現から無縁な明るさを感じていたのかもしれない。ランボーの「イリュミナシオン」のいくつかの詩篇にも同様のものを感じた。それから三十年以上の時が流れ、西脇の詩が現代詩にどのように貢献したか少し分かってきた。
一八九四年一月二十日、新潟県北魚沼郡小千谷に生れる。代々っ縮問屋を経営し、反物を主に京都の商人ととりひきをしていた。明治十三年吉郎右衛門が金融会社をおこし明治二十六年小千谷銀行の当主に父がなった。「中学時代、興味があったのは絵画であって文学ではなかった。唐詩はすばらしいものだと思い、詩という文学は美しいものであると思った。十八歳の時、英詩で詩を書こうとした。日本語で詩を書くことは、古めかしい文学語や雅文調でなければならないと信じていた。それを打ち消したのが萩原朔太郎であった。」このように「脳髄の日記」で記している。朔太郎の影響は、一方では三好達治を生み、もう一方では西脇を生んだと篠田一士はいう。このモダニズムの巨匠、西脇順三郎は現代詩史としてどのような位置に置かれるべき詩人なのか、吉本隆明の評論「抒情の変革」を紐解いてみよう。
「第一次大戦後の西欧のダダイズムからシュル・レアリズムへいたる手法の、影響下に出発した日本のモダニズム詩運動は、日本近代詩の詩的土壌に根をはった自然主義的な抒情に対する徹底的な反逆をめざしてはじめられた」。昭和三年、「詩と詩論」の創刊から昭和八年の廃刊まで、西脇順三郎、北園克衛、村野四郎らは「詩はコトバの芸術性を主体とする春山行夫がしいた軌道をたどったとみることができる」「詩をコトバの芸術だとする考えをおしすすめていけば、現実体験の意味は詩の表現から切り捨てられ、現実はただ素材とか風俗感覚としてしか詩のなかに入りこみえなくなる」という。西欧のモダニストについては「彼らも詩をコトバの芸術として、意味や思想性を追放することによって、内部世界と外部現実とのかかわりあいの問題を詩の表現から追放した。しかしそこに一定の方法があり、その超現実には、あきらかに内部の現実意識による裏うちがあったため、社会的危機の表現でありえた。詩の表現から、意味や思想性を追放するためには、内部世界と現実世界との対応性がはっきりと前提されていることが必須の条件であった」といい、対照的であったプロレタリア詩を「詩を意味の文学と考えた」といい、この観点から分析している。結局「プロレタリア・レアリズム運動は、詩人の内部世界の論理化と外部現実の論理化との対応を、はっきりと追及しきれない政治の優位性論にひきまわされ、主題の積極性と政治的情緒とのあいまいな混合物を、文学的意味と政治的な意味との未分化な矛盾、同居のまま、呈出したということができる」その後社会情勢の変化により両者とも消滅する。要するに、内部世界と外部現実の対応性がつきつめられなかったことが問題であったということである。両者の衰退の後、「四季」派の抒情詩が受け入れられていく。「現代詩がコトバの芸術性と意味の文学性を過度に削り取られたあとの、混合された内部世界と現実世界が、消極的にあらわれたものだと理解することができる」という。この三つの型、つまり、モダニズム詩、プロレタリア詩、「四季」派の抒情詩は、戦後の「荒地」グループ、「列島」グループ、「第三期の詩人たち」に対応するというのだ。次回と次々回に戦後詩を取り上げるのでここでは立ち入らないが、吉本は「荒地」において、「日本の詩が如何にして思想性をもちえるか」という後期象徴派以来の課題に一歩が踏み出されたとしている。また前回取り上げた金子光晴をモダニズムとプロレタリアの融合をわずかに成しえた詩人として別の論文で述べている。
 さて西脇の詩について少し立ち入ってみたい。彼の詩法の根幹をなしているのは、ベーコンから学んだと自ら述べる「自然がむすんでいるもの離し、離しているものを結びつける力をいう」。これは彼の想像力についての定義である。「昔からすべて詩的表現方法というものは、ものを表現するのにたとえていったり、形容したりすることであった。そうしたたとえ方は超自然的にした方が効果的であると教えた。ようするに象徴の形式をとれということである。」ロマン主義的美の原則、「連想上の存在として遠い二つのものが連結されると考えられる」という考え、ボードレールにおいては「イロニー」ということだという。さらに進んで、「相反する」という関係をも超えてイメージ自身をつくりあげようとする。何も象徴することもないイメージこそ「最大な詩の世界の産物である」という。「詩の世界が構成されるのは脳髄の中である」「意識の流れ」という方法が好きで、「これは違った二つの世界の外面と内面の世界が連結されるからである」と述べている。(ジョイスを思わせはするが決してプルーストを連想させないことは今後考えなければならないだろう。)ここで朔太郎の時に取り上げたイマジズムを思い起す。何ものも象徴することのないイメージそのものが現出する世界である。ところでロートレアモンの詩句を引用したシュルレアリスムの理論「手術台の上でミシンと蝙蝠傘が出会う」を思い起してしまうのだが、ブルトンから感じる現実意識が西脇には完全に欠落しているのだ。これは吉本隆明の指摘した「現実意識による裏うち」が欠落しているという主張である。もう少し西脇の言うところを考えてみよう。「詩の情念で説明すれば、詩は存在自身の淋しさである。自然、すなわち人生の淋しさである。その淋しさは恋愛の淋しさである。詩の術は恋愛をかくすことである。恋愛でないものに恋愛の淋しさを感じさせるように作る詩人は立派な詩人であろう。」「それは無の淋しさであろうか。淋しい心をもつ自分を慰めようとする。これはアリストテレスの言うカタルシスの論である。」「アムバルワリア」で西欧に近づいた彼が、「旅人かえらず「近代の寓話」になるに連れ、東洋的なものに回帰していくことを考えるならば納得される。シュルレアリスムを生き方の変革と考える私から見れば、西脇にはシュルレアリズムの影すらないといえよう。詩人の内部世界が現実意識と表現において結晶したのが戦後詩の一部の詩人であった。しかし戦争という外的要因によって引き起こされたもので、戦争の傷が癒されれば解体していく必然であった。今の現代詩を目にすれば理解されることである。次回からの戦後詩のテーマである。最後に、西脇のいう「人生派の詩人」と「理知的な虚無の詩人」の二極分裂は現在でも見られる現象である。ほんとうの詩人においては両方が内包されていると言える。萩原朔太郎と金子光晴という二人の詩人の存在を知ることで理解されよう。ノサックの「文学という弱い立場」という書物から引用して終わる。(中野孝次「金子光晴」の中で引用されたもの)

「あらゆる芸術作品、あらゆる書物は、常に一つの革命的な行為なのだ。文学は常に一つの新たな開始であり決して継承ではありません。文学が革命的なのは、それが常に制度的なものに反対して生命あるものを擁護するからです。常に過去に対して現在を、真理のドクマチックな所有に反対して真理の探究を、既成の解答に反対して問いかけを、常に人間を社会的な商に下落させることに反対して人間を擁護するからです」

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