ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

ミケランジェロ・ブエナロッティの詩。季刊個人誌『ヒーメロス』二号1999年5月15日発行から

2012年02月03日 | ミケランジェロ研究
トマソ・ガバルエーリに献ずるソネット
              ミケランジェロ・ブオナロッティ
                         小林 稔 訳
    一
受肉から解かれた、この世ならぬ光景も
地上に墜ちたもろもろの存在も、私には思い描くことさえ叶わぬ。
(可能な限り高みへと昇りつめる私の思考に導かれて)
そなたの美に私自らを武装しえたとして。

そなたから離れていると、愛の神が
私からすべての美徳を奪い、貶めるのではないかと恐れるのだ。
私の苦しみを弛められんことを願う。
私自らが増殖させた苦しみではあるが、私の生をも踏みにじる苦しみを。

だが、私がその苦悩から逃れようとしても叶わぬこと。
この敵なる美が立ち去るのを引き起こしているのは私なれど
私よりも敏捷に逃げ去る美から私が背を向けようとは思いもよらぬこと。

愛の神は、これほどの苦悩が、やがては甘美なるものになろうと
私に誓って、その両手で私の涙をぬぐうのだ。
これほどの犠牲を私に強いたものが、卑しくも愚かであろうはずがないゆえに。

    二
そなたの美しい御顔に、おお私の高貴なる人よ、
その無為の人生では、言葉では伝えがたいものばかりを読み取ってしまうのだ。
いまだ肉の衣に被われた魂は、そなたの恵みで、
いくたびも神を仰ぎて羽搏くのだ。

意地悪で愚かな卑俗さゆえ、私に後ろ指をさすという過ちを
人がしているのだのだということを彼らが知らないでいるとしても
私の燃え盛る熱情は静まることはない。
私の愛情も、私の信念も、私の純潔なままの欲望もまたそうではない。

私たちがこの地上で見るすべての美は
私たちが存在の恩恵を受けている慈悲深い源泉に融合している。
鋭敏に滑り込む精神よりも多くそのことを識るものは他にない。

この地上には天空とは別の、いかなる影像も、いかなる収穫の果実ももちろん
私たちは所有していない。そなたを激しく愛する者こそが
神の御座に昇りつめ、死をも甘美なものに変えるのだ。


「ミケランジェロの詩」私註

<美>さながらにうつした神々しいばかりの顔だちや、肉体の姿などを
目にするときは、まず、おののきが彼を貫き、あのときの畏怖の情の幾分
かがよみがえって彼を襲う。ついで、その姿に目を注ぎながら、身は神の
前に在るかのように、怖れ慎しむ。(『パイドロス』藤沢令夫訳)

 ミケランジェロがトマソ・ガブリエーリに逢ったのは、一五三二年八月のことである。そのときミケランジェロは五十七歳、トマソは二十三歳であった。「背が高く、細い体ながら肩幅の広いこのトマソ」と伝記作家は伝える。翌年クレメンス七世からシスティナ礼拝堂の壁画「最後の審判」そ制作を命じられ、よみがえるキリストの顔にトマソの顔を重ねたと伝えている。「髭のない、無関心をよそおった非の打ちどころのない、厳しいが暴力的ではなく、あらゆる同情というものを越えている」とある。加えてトマソに贈った三葉のデッサン画のうちの一つ「ガニュメデスの略奪」があり、これらからガバリエーリのおおよその外観を知ることができよう。
 ここに私が訳出した二つのソネットはC.BERDELEY『BEAU PETIT AMI』というフランスで出版された本を偶然見つけ、拙い語学力を駆使して試訳したものである。他に二通の手紙があり訳してみたが、紙面の都合で割愛した。ミケランジェロのトマソに寄せる真摯な想いが肌に伝わってくるようで、私は改めて彼に対する敬愛の念を深めたのであった。私が最も驚いたのは、プラトンガ『パイドロス』で描いたエロース論との呼応である。「プラトン学派の考えによって影響された数多いルネサンス時代の人々のうちで、そのような学説の中に自分自身の人格を形而上学の立場から正当化できる学説を見い出したのは、おそらく彼一人であったであろう」とトルナイが『ミケランジェロの芸術と思想』で述べたが、まさにそうである。プラトンに共鳴し、なおかつ彼の経験の中からプラトンの語彙に基づいて思索し、「美のイデア」に飛翔する一個人の苦悩と歓喜がある。
 トマソという美しい若者からミケランジェロの目に注いだヒーメロス(愛の情念)は「いまだ肉の衣に被われた魂」を熱くし翼が生え出んとするのを感じたことであろう。

「心配も恐れも死さえ感じられないほど多くの甘美さで、心も体も満たし養っているあなたの名前を、むしろ私を生かし、惨めにも私の体だけを養っている糧以上に忘れることがあろうか。それほど私は記憶にあなたの名前を持ち続けているのです。(一五三三年七月二八日付の手紙より抜粋。私訳。)

 トマソはミケランジェロのあまりにも卑下し自分を讃える言葉と行為に躊躇したが、自ら芸術を理解し絵をも描くトマソは尊敬する大芸術家と生涯を通して友人でありえたのであった。ミケランジェロは神を怖れるように自制して、「燃え盛る熱情」と「欲望」を鎮めることなく創作に表現したのであった。
 プラトンによれば、この世にある美は、それが人間であれ事物であれ、天空で魂がかつて見たという光あふれる神々の世界を想起させるものである。青年を恋する者は神を恋することと同様である。ゼウスを先頭に神々の行進に従った我々の魂の、肉体という牢獄に墜ちる以前の記憶なのである。ところがミケランジェロの神はキリスト教のヤーウェである。プラトニズムにキリスト教の影が色濃く落ちているのである。キリストもこの世で受肉された美の化身であらねばならない。トマソに逢った三年後に、コロンナという女性との交際からキリスト教に心酔していくことも含めて論じてみたいテーマであるが、今後の課題として別の機会に論じることにして、今はここで筆を置きたい。
 ここに私が私訳した詩からミケランジェロの想いを読み取っていただければと思う。私のエセー『アンテロースの恋』がその助けになればとも思い、同時にこの小冊子に掲載した。論文というより、詩人のわがままな哲学的逍遥に過ぎない。

(私のエセー、『アンテロースの恋』がこの後に掲載されたが、後日このブログで紹介することにする)


コメントを投稿