榛(はしばみ)の繁みで
小林 稔
一、死
榛(はしばみ)の繁みで身を隠しているものたち! 真昼時、通り抜けるたびにどこかで
子供たちの真鍮(しんちゅう)を打ち叩く音、火事を報せる消防車の遠くから響く警報に似た
それを耳にしているような思いがしてならなかったが、繁みに見出すのは淀ん
だ闇だけであったし、ずいぶん長く会っていない人たちの気配がそこから立ち
昇ってくるのであった。いやそれはぼくの思い違いでぼくのどこか頭の片隅か
らやってくるのかもしれない。それにしてもそこから立ち現われてくるのは、
不慮の事故や病気で亡くなったと知らされている友だちだ。もっともぼくが知
らないだけで、遠くで近くでもう死んでしまっている友だちがもっといるのか
もしれないのだ。
裸足で庭を駆けてきて縁側で西瓜を頬張(ほおば)っているのは誰?
満水の川岸に辿りきれず溺れ死んだのは誰?
別れて何十年も経ち、ぼくの記憶に居場所を落ち着けてしまった人たちには時
間が止められていて、ぼくだけが老いてしまっているから会うことが億劫(おっくう)にな
る。ある時ある場所を共有していたことは事実だから記憶は永遠に生きつづけ
ることになる。永遠だって? どんなに長く生きてもぼく自身があと三十年あ
るいは二十年しか生きられないというのに。それならむしろ書きとめるべきで
はないのか。しかし記述は再現でなく記述する時間を言葉で生きることになる
ので、新しい生が始まるともいえるのだ。
そうであるならば、ぼくの命あるかぎり亡者たちを(そのなかには生存者も
いるかもしれない!)登場させようではないか? 書物に永遠に(とりあえず
は)記されることになる。ぼくのこれまでの時間の鍵が解き明かされるかもし
れない。ぼくの経験から、犇(ひし)めき合っているたくさんの他者たちの声を救い出
し、新しい命の出産に立ち会おうじゃないか。
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