ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

書評「情念のエクリチュール」後編)小林稔 「ヒーメロス20号」最新号から転載。ショパンの評伝的小説。

2012年04月22日 | ショパン研究
書評
  情念のエクリチュール(後編)
   小説『ショパン 炎のバラード』ロベルト・コトロネーオ 河島英昭訳 集英社2010年十月刊
  
  小林 稔

 十一
 
互いにまったく異なった二つの世界があるというだけで異常というべきだ。しかも双方が偶然によっ
て支えられているとは。(p.256)

ショパンの真の誕生日とさえ伝記作家によって語られるニ月十七日は、《バラード四番》のフィナ
ーレを書き直した日である。その百年後にアンドレイ・カリトノヴィッチが逮捕されたのであったが、
彼は、「愚鈍な警官たち」を「軽蔑した微笑を浮かべながら見守っていたにちがいない」。体制側の
執行計画に則した警官たちは、理解不能な「あるドラマの進行」に手を貸していたのである。「私」
になにがしかの金と引き換えに手稿譜を与えたエヴゲニーも同様に動かされているのだ。偶然が「筋
書きを生み出し、構築物をつくりあげ、おそらく、たいした意味をもたなかったものに対しても、そ
れなりの意味を付与してきた」。数年前、「私」は「私のソランジュ」のために《バラード四番》と
最後のマズルカを弾いたが、「私」の演奏を賞賛することはなかった。彼女は「私」の肉体だけを捜
し求めたのであった。「私」は混乱した。改めてバラードを弾き、「最初の版のほうが良かったので
はないか」という結論に達した。ソランジュのわがままが書き返させたのではないかと思うようにな
った。
 母は愛するアルトゥーロ叔父が亡くなったとき、あまりの悲嘆に明け暮れ亡くなったのだと「私」
は信じている。父はそれでも苦しみに堪えながらも母を愛しつづけていたが、父は叔父のことも愛し
ていたのである。父は、叔父が才能のあるピアニストであることは認めていた。二重の苦しみのなか
で父は髪は白くなり抜け落ちていった。その三年間のあいだに「私」はショパン・コンクールへの準
備をしていた。父は沈黙を募らせていたが、ある日、「私」が弾く《マズルカ・へ単調》に耳を傾け
た。かつて母が父のために弾いていた曲であろう。「私」が鍵盤から指を離し弾くことを中断したと
き、父の心を乱してしまったことを知った。再び弾き始めたのだが、ちちは扉の向うに消えて、帰っ
てくることはなかった。ショパン・コンクールで「私」が演奏したのも、あの日に弾いた《バラード
四番》と《マズルカ作品六八の四》であり、扉の影で聴き入る父の姿を見つけ近づいていく前に姿を
消したのであった。父は叔父を一つ屋根の下に住まわせていた。「三者三様に味わった恐怖」。コン
クールに優勝し、「私」の名は世界に広まった。レコード会社との契約、二年間分の演奏日程が決定
された。しかし直後の戦争が「私の心に深い苦しみをもたらし」た。兵役の招集を避け、イタリアを
離れスイスに移り住んだのであったが、罪悪感から解放されたのは、イタリアに帰りパルチザン部隊
に参加してからであった。
 ある晩のことである。国境から数キロメートルにある集落のある一軒の家で「機械もピアノ線も剥
き出し」のピアノに出会った。「私たちのグループ」の最年長者が「私」に弾いてみるように命じた。
指を試しに置いてみると、調律がしっかりしていることが分かった。「私」はすぐにショパンのワル
ツを引き始めた。踊りだす者もいて、チャールストンを弾いてくれという声が聞こえたが、「私」は
応じなかった。ピアノを弾くのは二年ぶりであった。次にブラームスの狂詩曲を弾き始めた。周囲は
静まり返り、「私」を自分たちとは「別の存在」であるかのように見ていた。夜が明け始めて、寒さ
が募っていた。「私たち」は三百名のパルチザンと国境を越えスイスに逃亡した。数ヵ月後にミラノ
に帰った。一九四五年六月。あの夜、「私」が弾いたピアノに耳を傾けた人々は、その後さまざまな
人生を歩き出していたであろう。「私」はスイスの山荘、「ニューヨークとロンドンとパリの中間点」
にいる。あの「私」が生み出した音楽は「私の魂を、私の精神を、私の才能を剥き出しにした」ので
あり、「開かれた大きな門」を後にして嘆きとともに、人々との壁をつくったのである。父でさえ
「私の才能に当惑して」扉の蔭に隠れたのだ。しかし母はそれに耐えた。「なぜならば、私の才能の
うちに、母は叔父アルトゥーロの敗北を見抜いたからである」。母の復讐、母を拒んだことに対する
復讐といえるものであった。矛盾する感情を母は手紙に書き留めた。母の死後、それらは発見された
が、叔母の一人が焼き捨てた。暖炉のなかで燃える手紙の束を見つめながら、「私」は時を遡って、
ジョルジュ・サンドがショパンに送った手紙を自ら焼却したことを思い起こした。
 一八五一年、アレクサンドル・デュマがホーランドのシレジア地方でショパン宛のサンドの手紙を
見つけた。サンドがショパンの姉ルイーザに持ち去るように託し、ポーランドに運ばれたのであった。
なぜサンドはそうしたのか。ルイ―ザはなぜか身辺に置かず友人に渡してしまった。そこに辿り着き
手にしたのがデュマであり、サンドに知らせたのである。サンドの反応はどのようであったか。

わたしの人生のなかでも九年間を、満たしつづけた母親の情愛が、どれほどのものであったか、おわ
かりになったでしょう。確かに、それらの手紙のなかには、秘密にするべきものなどなく、どちらか
と言えば、まるでわが息子のように、あの高貴な癒しがたい心を、大切にし、かつ優しく慰めたこと
こそ、恥ずかしさと共に、わたしの誇りとすべきものでしょう.。(p.265)

 これら母とサンドの手紙の焼却の近親性を「私」は絶えず考えてきた。サンドは大部な書簡集を残
している。ショパンに送った手紙はすべて焼却している。秘密にすべきものはないとはいえないので
はないかと「私」は思う。二人の手紙が溶け合い、ソランジュに似た「もう一人のソランジュ」と出
逢ったことで「私の人生を決定的に混乱させ、私を驚愕に陥れ、ほとんど赦しがたいほどの感情のう
ちに、あの窓辺の狂気に、私を対面させたのであった」。
 あの夜、「私のソランジュ」はピアノに近づくことはなかった。別れの気配を「私」は感じ取って
いた。「あの慎みぶかい官能的な態度のうちには、遠い日に感じ取れたものと同じ、あの隔たりを、
読み取ることができた」。

この世界との係わりの一切の可能性を断ち切るために、ピアノが私から離れて、関係を終りにしてし
まうのではないか、と恐れを抱いたときのときの気配に似ていた。そうなれば、私こそが私の道具の
犠牲者であった。(p.267)

 ショパンはソランジュのために《バラード四番》のコーダを書くことができた。しかしソランジュ
には弾くことができなかったにちがいない。「彼は自分のピアノを彼の感覚の簡単な道具に、移し変
えることに本当に成功した」のである。したがってソランジュには「沈黙の、音にならない、音楽に
ならないものとしてのみ、残るであろうと知りつつ、そうした」というほかない。「私」はかつてあ
るジャーナリズムに言ったことがある。

 ピアノが、演奏家と聴衆とのあいだに存在する、仲介者であることを、考えてみてください。私の
驚異的な技術が、わたしの道具を、自立した何ものかに、私の統治を越えた怪物に、変えてしまうこ
とが、しばしば生じるのです。ついには、それ自体に、生命を吹き込んで、それ自身を、真の主人公
に変身させてしまうのです。(p.268)

 もはや芸術家の孤絶というべきものであろうか。いかなる表現であれ伝達すべき他者は存在する。
一人の人物に愛を捧げるべき情念が、芸術の形式を取るときには単なる愛の表現を超え出て普遍性を
獲得する。それゆえ対象者(愛される者)は芸術家の視線が自分に注がれていないことを知り嫉妬に
似た感情に捉えられ、自尊心を損なわれたと思うのである。それでは芸術家は誰と出逢うのだろうか。
芸術を思考するもう一人の芸術家である。「何という皮肉な調和か! 私だけが、あの困難極まりな
い、激烈なパートを、演奏できるとは」。しかし、「私のソランジュ」にパリのカフェで出遭えたと
はいえ、「私はピアニストという調和の函の内に、それを閉じこめてしまった」。ショパンを惑乱さ
せた悪魔たちのように。
 「私」はいま、スイスの山荘でこれまでの人生を回顧している。自分を自分から引き離す生活に耐
えられずに、森のなかをさまよい歩く。最近はドビュッシーを選んで弾いた、「計算ずみの不調和な
彼の情熱が好きなためであり」、「私の心の奥底には触れないから」である。稀に応じるインタビュ
ーではモーツァルトやスカルラッティやベートーベンであるが、ショパンは語らない。「なぜならば、
私には分かっているから、ショパンが私を待っていることが。最後には、私が彼のことろへ帰ってい
かねばならないことが」。
 「私」は夢の中にいた。恐ろしい静寂。いく年かまえ、スイスとイタリアの国境近くのゴンド峡谷
の五百メートルの絶壁の上にいた。「谷底は深く、暗くて、そこに幾条(いくすじ)かの道が走ってい
た」。空想の登山家たちがこの岩を登ってくる光景を思い起こした。「私」もまた《バラード》の二
番、四番の困難な部分を弾きこなしたのだから、彼らと同じといえた。クラウディオ・アラウは悪戦
苦闘して登っていた。ルビンシュタインはあらゆる困難を克服していた。彼らは老練なアルピニスト
で、「深い経験のうえに築いた、熟練の技法を駆使して、苦しみの果てに、難攻不落の絶壁を、彼の
体力の限界を超えつつ、征服してみせた光景を、目のあたりに見るような気がした」。一方で、彼ら
の中にもう一人のアルピニストがいて、完璧な動きは「自然が生まれながらに彼に授けた、天賦の才
というものであり、「岩場を生み出した自然と同質のもの、同じ才能を駆使して岩場を征服するのだ
から、子供の戯れに等しい」といえよう。「私」はその中間に位置する者である。絶壁の頂上に達し
たと思うや否や第一段階に過ぎないことを知る。《バラード四番》が示す絶壁は、その先もつづき、
想像を絶するものであろう。ショパンはいかにしてあの絶壁を登ったのか。ルビンシュタインは? 
アラウは? コルトーは? 「ショパンはあの壁を築いて、造りあげ、創造してみせたのであり、そ
の挙句に、私たちにあれを残したのだ」。
 フランツ・ヴェルト、アンドレイ・カリトノヴィッチ、そして「私」の三人が、記憶の内部に閉ざ
されたままになってしまい、「聴衆の前で弾くことができなかった楽曲」を、ショパンは「ソランジ
ュを連れ出し、賛美させた」のである。「私」が入手した手稿譜は、「私」とショパン、「私」とソ
ランジュ・デュドヴァン、「私」と「私」の母、「私」の父とのあいだの、さらにアルトゥーロ、ア
ンネッタ、ヴェルト、カリトノヴィッチ、エヴケニー、ジェイムス、そしてアラウとのあいだの決算
書といえるのだ。戦争が「私」の二十五年間を閉じこめてしまった。あの古い物語は私的な内容であ
るゆえ人前では語られるものではない。しかし「私のピアノ」こそが意味を付与するものであり完結
させるものであった。母も叔父もピアノを弾いたが、父は弾く人ではなかった。それは「彼の人生の
悲劇であった」。ソランジュに対するショパンの、叔父に対する母の、「私」に対する母の、エフゲ
ニーに対するカリトノヴィッチの、カリトノヴィッチに対する老教授の、それぞれの情念は「私」を
襲い、全体が結びつけられたとき意味をなしたといえる。それを、「私のソランジュ」が家を出て行
ったその朝に理解したのであった。彼女は戻ってくるであろう。
 手稿譜を入れてある抽き出しに写真を入れた封筒が保存されていた。「私の赤ん坊のころの写真」、
十一歳のときのピアノに向かって腰かけている「私」の後ろに母は立っている写真、それらの写真の
裏には、「アルトゥーロから」という文字があるので、叔父がファインダーを覗いたことが分かる。
母の視線は生涯、叔父を見つめたひとつであった。それぞれの「宿命の事件」がいっしょになって、
「この宇宙の神こそはまさにヘ短調の和音である、という考えに近づけてきた」。欠けているものは
「私のソランジュではなく、彼のソランジュであった」。あの手稿譜の情念の筆跡をいかに解明でき
るのか。見出されるのであれば「私の物語をひとつにまとめることができるはずであった」。ヴァン
ドーム広場には、「偉大な作曲家フレデリック・ショパンここに死す「という碑銘がある。瀕死のシ
ョパンのまえにソランジュは行かなかった。彼女の夫である彫刻家クレサンジュは、ショパンのデス
マスクを取った人である。「ペール・ラシューズ墓地のショパンの墓を飾る彫刻も彼の手になるもの
であった」。ソランジュからショパンに送った手紙や日記や手稿譜は後に姉のルイーザによってポー
ランドに移されたが、一八六三年、ロシアに反乱を起こしたコサック兵によって焼却されたと思われ
たが、手稿譜だけが奇跡的に焼かれなかったのである。

  十二
 
この小説『ショパン 炎のバラード』の記述を一章から読み進んできたが、時間軸が行きつ戻りつし
ているのは、全編が晩年における人生の回顧の上に成立しているからである。その契機は、十数年前
のパリ滞在時、ショパンの手稿譜を入手したことにある。それまでの音楽に対する思いに修正を迫ら
れてくる心理的過程が描かれ、過去の時間の意味が問われていくのである。
 「私」が「自分の過去を精一杯に私の音楽に詰めこんできた」録音の時間は十時間ほどに過ぎない。
アラウやルビンシュタインやマガノフは「山のように不出来な録音を、残してしまった」。CDでは
なく「七十八回転の、あの引っ掻くような、しわがれた声の混じった、最初に録音したときのままの
音を聴きたい。あの絶え間ない、底から湧いてくる音。あれこそは、音楽における時間の深さ、人生
と過去の深さ、人生と過去の
静けさを、伝えてくるものだ」と思う。
 《前奏曲集》にみられる未完の様相は、比べられるものにフィレンツェのメーディチ家礼拝堂にお
けるミケランジェロの彫刻群だけがある。全二四曲の最後の作品《前奏曲ニ短調》をコルトーは、
《血と逸楽と死》という言葉で規定した。荒あアラウはいう「《前奏曲集》の最後の決定的瞬間は、
まさに、荒れ狂う海の嵐だ。その後で、人生に残された大きな熱情を味わうことは、もはやない」。
「私」が近い将来の仕事に選んだのは、「《前奏曲集》がまさに、《バラード》の正反対に位置する
からだ」。最後の《前奏曲》は「宙吊にされた叙情を封印するものである」。そして「《バラード第
四番》のコーダの先触れをなすもの」である。病状が悪化し、マヨルカ島から脱出できないのではな
いかという恐怖が引き起こした未完結の構成を強いた。《バラード第四番》(むしろ「私の《バラー
ド第四番》」は、「速度を緩やかにしようと努める、漕ぎ手のものであり、たとえ虚しくとも、流れ
の力を宥めようとするものであり、最後には、勇気をもって急流に立ち向かうもの」である。
 「私」は年をとりすぎている。あの手稿譜以外は見ないようにしている。それは「私の生命の本で
あり、ショパンとあの時代に対する、私の妄念の書のようなものである。さらに私が関係してきた女
たちのための書物であり、誰とも心を通わせるすべを知らずに終わってしまった」。「私は肉体とい
う言語を偏愛してきた」のである。ソランジュの手紙も、母の手紙も焼却されてしまった。「私」に
は手稿譜に刻まれた筆跡を追い、楽譜を追って「恐れ戦くものまでも、見出していくしかなかったの
である」。
 「私」は「音楽を命ある何ものかとして取り扱ってきた」。今日のピアニストたちは、譜面に書か
れているだけのものを弾いて、事足れりとする。残りの仕事をするのは、むしろ音響の技師たちにな
るだろう」。「私の世界は、もはや誰にも分からないコードの世界に、つまり、失われた事物によっ
て成り立つ世界に、転落してしまった」といえよう。現代では精神性の探求を思考する芸術家は少な
くなった。「私は一切の幻想を擲った」。「情念の筆跡」が存在するとき、「私」は、それを解読で
きる、つまり音楽として演奏できる最後の人間であると自負している。
 「ファの一つが、どうしても思うように響かない。かすかな摩擦音がする」。調律師は「私」に言
った、「あなたは不完全な音色を望んでいるのではないか」と。「私」は納得するに至る。「いかに
も、かすかな不協和音だけが、あの魂の病から、私を自由にしてくれていたのだ」、「あの縺れあう
偶然の運命の絡まりから、私を解き放って」。「世界が、ひとつの音色のうちに潜む、かすかな、不
協和音に過ぎないこと」を知って、初めて安堵を味わったのであった。

  十三
 
ショパンはピアノの詩人と呼ばれている。それはいかなる意味で言われているのだろうか。「詩とは
何か」という曖昧な規定において呼ばれているのであれば、詩というものを探求することなしにショ
パンの本質を解明することはできない。ミケランジェリの音楽に私が何を感受し、自らショパンの楽
曲を弾く経験をするようになったのかを考えてみよう。この小説の作者が「私」に語らせた音楽への
思いに沿って考えてみることができる。この論考の冒頭で述べたように、音楽を別のものに意味づけ
ることは冒瀆であるという考えを整理してみよう。詩人が言葉に喚起され、音楽家は音に喚起される
という相違はあるが、私たちの日常空間において詩想や曲想は把握される。芸術家の関わる人生のす
べてが関与する。しかしひとたび創作が始まると、あるひとつの理想に牽引され、言葉そのものの世
界、音そのものの世界へと精神は高揚するであろう。受容する者、つまり読み手や聴き手は同じ高揚
感を共有せずして共感はない。「理想」と言おうと、プラトンの考えた「イデア」と言おうとそれほ
ど違いないのであるが、ある曲を人生のある情景の表現と考えることで事足れりとすることは、音楽
の本質を見失うことになる。詩を詩人の人生からのみ読み解くことと同様である。ひとりの詩人、ひ
とりの音楽家をつねに超出してしまうものがあり、それが詩や音楽の本質であると私は考える。それ
はある意味で現実世界からの隔絶であり、芸術家に孤独を強いるものである。芸術家を牽引するもの、
それを私は理想と述べたが、具体的には「美」であり、ポエジーと呼べるものであると私は考える。
だが留意すべきは、ポエジーは現実のわれわれの生活の中に訪れるのであり、彼方に求めるものでは
ないということである。先に「芸術家が関わる人生のすべてが関与する」と述べたことの意味である。
私が初めてミケランジェリのピアノに耳を傾けたときに感じ入ったものこそ、ポエジーであったとい
えるのである。詩人は言葉の啓示を解き明かそうとするが、音楽家は言葉以前の原初的な音=声を追
及しつづけるという違いはある。どちらも私たちの足許に訪れ、私たちをポエジーの源泉へと上昇さ
せようと誘うのである。


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