ヒーメロス通信


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鮎川信夫研究・「ひいめろすの会」・個人詩誌「ヒーメロス」7号からの転載。

2012年02月08日 | 鮎川信夫研究
鮎川信夫研究『ヒーメロス』7号2004年発行に掲載した記事
小林 稔

平成十五年九月十四日天使舎
第十二回ワークショップ「ひいめろすの会」からの報告

鮎川信夫研究
 吉本隆明は「戦後詩の体験」で戦後詩を次のように述べている。
「戦争がもたらした破壊と、生命を剥奪される実感に耐えて生き、そのまま敗戦後の荒廃した現実を体験せざるをえなかった意味を、内部の問題としてつきつめることのなかった詩人に戦争詩人という名を冠することはできないだろう。戦争と戦後の現実体験を内部の問題として罪業のように、とにかく未来にむかって歩みはじめねばならなかった詩人たちによって、推進されねばならなかった」という。前回でも言った戦前のモダニズムとプロレタリアの不完全さをどう克服すべきかが課題であったのであり、それはとりもなおさず明治以後の近代文学全般の問題にかかわるものであった。「
 ところで、吉本は「現代詩批評の問題」で、詩の批評が小説の批評のように文芸批評家によって「はっきりとした批評的な自覚のうえに立って照らし出された」ということがないのはどういうことなのかを論じている。「詩の表現上で、コトバの格闘を余儀なくされて、形式と内容とが、分裂の危機にさらされたとき、はじめて詩と小説の概念が分裂し、和解しがたくなったのだとかんがえられる。」後期象徴派の「詩の思想性を言葉の格闘の面から獲得しようとした時期」「昭和初年、ダダイズムやシュル・レアリズムの影響下に、現代詩が手法的な試みをつきすすめた時期」に決定的になったという。後期象徴派以来、詩が文学全般から隔絶された事情を、「日本の現代詩が、衣裳やイデオロギーの転写ではない、真の意味の思想性を獲得するためには、内部世界と、外部現実と、表現との関係についての明晰な自覚が必要である」のだが、「この問題をコトバの面からの格闘によって解こうとした日本の詩人たちの態度に原因がある」とし、以後も続いているのではないかという。そして「荒地」グループは、「主体的態度の尊重、現実体験の内面化、表現領域の拡大によって、いわば小説の世界と独立に、戦後文学の課題を共通に担っているといいうる」と主張する。
 今回は鮎川の詩、「繋船ホテルの朝の歌」と「死んだ男」と「秋のオード」「アメリカ」「アメリカ覚書」などを小林が朗読した。鮎川のいくつかの詩に触れた時、思想的な詩だけでなく、抒情詩の系列の詩があることに驚く。吉本は次のように解説している。「詩への願望という意識下を軸にとってみれば現実的な上辺に、自我形成の黄金時代である戦前の下降期文化にたいする郷愁のようなものがあり、戦場の体験があり、戦後革命勢力にたいするアンビヴァレントな反応があり、下辺には母や姉にたいする近親相姦的な執着があり異性にたいする童姦性の愛憎がふかく埋没されていて内部世界の性格を決定している。」(「鮎川信夫の根拠」)また別のところでは、「姉さんごめんよ」という詩では「極限の体験から生き残ってしまった自己の象徴を、一人の男と近親の異性という微妙な設定の仕方が、なぜ必要だったのか。たぶん、ここで幼児期の体験を反芻している。幼児の心の戯れを、ひとつ残しておいて、戦争をくぐり、無理に喪失させられた青春の生が、どういう位置にあるのかを、確かめようとしている」(同書)と述べている。
「繋船ホテルの朝の歌」では恋人である女性が出てくる。
「荒廃した現実、希望のない未来、とじこめられた敗戦日本のいきぐるしさ、こういう一切から逃れたくて、死に疲れた女と、どこか遠い世界へゆきたいと願いながら、けっきょくは安ホテルで一夜をあかし、女とむかいあって白けきった朝食をとる、そういう個人的な体験をとおして、戦後日本革命の敗北してゆく現実へ、内部世界をおしひらいてみせた記念碑的な作品である」(「鮎川信夫論」)と吉本は言う。これ以上付け加えられる言葉がないが、一時代の歴史的体験を超えて、戦争の体験を持たない私にも、詩というものが絶えず内包している「根源的な喪失感」に訴えるものがある。かつて吉本は四季派の詩と戦後詩を比較して、「永続的な意味で詩的なものが含まれているかは疑問である」と言ったが、この鮎川の、極めて個人的なものに題材を求めた詩が、普遍的な詩の概念に関るところのものとは、「喪失感」であると私は思っている。詩の本質を追い求めた時に必ずや問題にされる中心的なテーマになると考えられるがここではこれ以上論じることはしない。
 さて、戦前、モダニズムから出発した鮎川が、「囲曉地」という詩を書き始めたころから、倫理的要請が彼の内部で生れ始め、戦争中、戦後と一貫してそれは存続し続けたと吉本はいう。
 瀬尾育生の二〇〇一年十一月号の現代詩手帳に発表された論文「もう一人の<内なる人>」によると、「鮎川信夫は戦争期を、閉ざされた内部に明晰な密室をつくるというヴァレリー的な方法によって通過した。」「だが自らの肉体をやがて戦場に赴かせようとしていた彼ら(サンボリストやモダニズムの詩人たち)にとって、この無償性の理念は十分な支えを与えなかった。」「エリオットがそうしたように、詩は社会に対して抵抗して生きることを強いられた人間にとって、何らかの有償性となるべきものだ」と考えたという。社会に対して「内的に同調しない」という抵抗を示し、「死者たちとの関係だけを拠り所にして、戦後詩の公的な場面に姿をあらわすことになる」。鮎川は、西欧の知識人が第一次世界大戦後に考えたことを、日本の戦後に語ろうとしたのである。「戦争期の体験が中世的な原罪の観念にまでつながるような射程のなかで考えられた」。しかしそれが敗戦後の日本で語ることが「いかに伝磨性を欠くものであったか」を悟り、以後「詩の理念の中に移されるのである」。『何処へ持っていっても変色しない美と真実を示すことによって、全く新しい共感の社会を創り出すこと』。(鮎川)このような詩の理念からすれば「内的世界を棄てて集団性や共同性へと逃亡したと考えられる詩人たちの責任を」鮎川は問うことになった。
 鮎川の一貫した主張は、戦後の混乱した思潮の中で孤立させ社会との接点を喪失してしまうことになったのである。『私の発言の根底には真の意味での連帯感がなく、その歪んだ戦時体験には、ほとんど伝魔性がないことを自覚していた』(鮎川)彼は民衆に対して自分は詩を書くという一点において優位性を主張した。そして吉本の戦争責任論から鮎川との差異を瀬尾育生は論じている。「吉本が戦争期の詩人たちを批判することができたのは、彼がそれらの詩人たちと同じ過程を生き、同じように汚れ、彼らに対する批判を自分自身がその一部であるような存在に対する批判として成り立たせることができたからである」と述べている。
 鮎川にとっての先行世代の詩人たちは、モダニストであったり、プロレタリア詩人だったりしたが、彼らは戦場に行く経験をもたなかった人たちである。愛国詩を戦時中はさかんに書き、戦後は謝罪し、戦前のモダニズムやプリレタリア詩に戻って行ったという。しかし鮎川は、彼らは「嘘や偽りで戦争詩を書いたのではない。」彼らの愛国心は「正真正銘のものでした」という。瀬尾は「彼らの詩にはこのときはじめて、現実と出会いうる構造、現実に裏切られれば傷つくことのできる構造が生れた」と述べている。したがって、「彼らが戦争詩を肯定し、そのうえに否定を重ねていけば、鮎川との対立は「闘争の場所となりえたかもしれない」ともいう。しかし現実には彼らは謝罪し戦前の言語芸術に戻ってしまったのである。「近代以降の日本の詩を、深い層からあらたに取り出される連続性の上に立てるための、彼らに与えられた唯一の機会だった」とする。
 以後、現代詩の詩人は孤立したまま、対立を避けたままになったのである。鮎川にとっても私たちにとっても、また日本の現代詩にとっても不幸なことであった。鮎川の戦争責任論と吉本のそれを比較し、今後考え論じなければならないテーマではないだろうか。
 戦後詩はほんとうに終わったのだろうか。社会に対立して詩人の「内的次元」を追い求め、つまり超越的なものにポエジーを追究し続ける立場と、「権力や国民の意志の大きな変動に遭遇して、一人の人間に大きな変容が強いられる時、その人間のなかで、内的な連続性と、同時に起こるその切断の相とを、衝突させ」「否定された自己にあえて権利主張させることによって、より深い層から現在の自己へとつながるもう一つの連続性を手に入れることができる」立場があることは、いまだ継続している問題であろう。

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