ヒーメロス通信


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柄谷行人『哲学の起源』(岩波書店)を読んで

2013年08月24日 | お知らせ

柄谷行人『哲学の起源』を読んで

小林稔

 

 最近(2013年7月)、私にとって未知なる作家、柄谷行人なる人物による『哲学の起源』(岩波書店)という書物に出合った。著者の名前は以前から存じていたが読んだことは一度もなかった。従来のアテネ中心主義の哲学(プラトン、アリストテレス)から構成された哲学史からの変更を迫るものである。プラトンによって描かれたソクラテスからの解放とソクラテス的人物像をイオニアの哲学に源泉を見出そうとし、さらにデリダの「脱構築」をソクラテスの対話法から読み取ろうとするものである。後者は最後の注で指摘するにとどめているが。アテネのデモクラシ―が成立する以前のイソノミア(無支配)の重要性を主張する書物である。私はその後、柄谷氏の他の書物、『世界共和国へ』(岩波新書)や『世界史の構造』(岩波書店)を読み進めている。

柄谷氏はみずからのエクリチュールを顧みて次のようにいう。二〇〇一年の9・11ニューヨークテロが起こるまでは、「私は根本的には文学評論家であり、マルクスやカントをテクストとして読んでいた」のであり、「自分の意見ではあっても、それをテクストから引き出しうる意味としてのみ提示していた」にすぎなかったが、「このようなテクストの読解には限界がある」と知ったという。そして「私は自身の理論的体系を創る必要を感じた」と『世界史の構造』の序文で語る。(カッコ内の引用は序文から)。

ソ連解体のあった一九九〇年ごろに流布した「歴史の終焉」(フランシス・フクヤマ)はヘーゲルの「歴史の終り」をコミニュズム体制の崩壊とアメリカの窮極的勝利を意味づけるために用いた」フクヤマの言葉で、「一九八九年の東欧革命は自由・民主主義の勝利を示すものであり、これ以後にもはや根本的な革命はない、ゆえに歴史は終わったといおうとしたのである」と柄谷氏は解釈した。しかし、それはアメリカの勝利を意味しない、なぜなら二十年後の今日、その後のグローバリゼーションや新自由主義は破綻したからであるという。近代の社会構成を、資本=ネーション=ステートとして見るべきであると柄谷氏は主張する。それの詳細は、彼の『世界史の構造』〈二〇一〇年〉の五百ページに及ぶ著作で説明されている。この著作を上梓したのちに『哲学の起源』(二〇一二年十一月刊)が世に出たのである。『世界史の構造』で彼が伝えたかったことは社会構成体の歴史を「交換様式」から見ようとすることである。マルクスを受け継ぐものであるが、マルクス批判でもある。マルクスは経済的土台を「生産様式」において見たが、近代以前の社会については適用できないし、宗教やネーションという上部構造とのつながりは説明できないと柄谷氏はいう。そこで考え付いたのが「交換様式」である。上記した、「自身の理論的体系」とはこのことである。交換様式がどのようなものであるのかは、私はまだ解読の段階であり分析することは今はできない。柄谷氏もその序文でいうように、『哲学の起源』をこの交換様式を知らなくても読み通すことはできる。ニーチェ以来、プラトン批判が相次いで行われたが、一般的にはプラトンは原子論者に代表されるイオニアの精神との葛藤の後にプラトン神学を確立したといわれている。柄谷はプラトンのソクラテス像から「ソクラテスはイオニアの思想と政治を回復した最後の人」として奪回したいのであろう。なぜならカントの「世界共和国」は交換様式Ⅾにおいて可能であるし、イオニアで始まったイソノミアは、柄谷氏が説く、いまだ実現されていない交換様式Ⅾのアソシエーションに向かう鍵であるからである。なぜ哲学が問題になるのか、なぜ宗教が問題になるのかを考えるための道筋が事細かに書かれている。交換様式の分析、プラトン哲学は否定されるべきか否か、またキュニコス主義との関係を、私は熟考し、まとめようと思う。フーコーの「自己への配慮」の観点からも興味をそそる問題が頻出している。