ヒーメロス通信


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井筒俊彦『意識と本質』解読第十八回・「本質」肯定論第三型・小林稔

2013年08月13日 | 井筒俊彦研究

「本質」肯定論第三型・井筒俊彦『意識と本質』解読・連載第十八回(最終回)

小林稔

 「本質肯定論」を井筒氏は三つの型に分けて述べる。

 第一型

  普遍的「本質」(マヒーヤ)は実在するという立場。東洋哲学では宋学の「格物窮理」がこの領域に入る。すでにこの連載で紹介した。(第八回参照)

 第二型

  シャーマニズムや神秘主義の根源的イマージュの世界。象徴性を帯びたアーキタイプ(元型)として現れる。イブン・アラビーの「有無中道の実在」(第五回参照)や、スフラワルディ―の「光の天使」、密教のマンダラ(空海の真言)、ユダヤ教神秘主義カッバーラーの「セフィーロ―ト」(前回に紹介した)。

 第三型

  第一型、第二型が深層意識領域内で生起するのに対して、第三型は意識の深層だけでなく表層で、理知的に認知するところに成立する。構造を分析し、表層意識的に「本質」の実在を確認する。古代中国の儒学、とくに孔子の正名論、古代インドのニヤーヤ・ヴァイシェーシカ派特有の存在範疇論などがある。

 この「意識と本質」解読では、第二型まで読み終えたことになる。

今回から、第三型を読み解いていこう。

 

p.293 ~317

 

 「本質」肯定論の第三型は、普遍的「本質」を深層意識ではなく、外的に客観的に実在すると信じる人の立場であると井筒氏はいう。われわれが目にする花々の背後に、唯一の普遍的な花自体なるものがあると考える。それは抽象的な概念としてではなく、感覚的事物の背後に普遍的「本質」があるという考えである。井筒は、この領域の第一人者としてプラトンを挙げる。「イデア」とは実在する普遍的「本質」であるという。実在する普遍者、経験的世界の事物を内在的に、あるいは超在的に、規定する普遍的「本質」がイデアであり、絶えず定義によって普遍者を言語的かつ理性的に定着しようとすると井筒氏はいう。アリストテレスが『形而上学』で述べるように、ソクラテスの関心の領域は倫理、道徳に関する事柄であり、自然的世界には関心を示さなかったが、定義の探求は本質の探究であり、感覚的事物の非感覚的本質を求めて止まぬ執拗な情熱の人であったと井筒氏はいう。すべての個物に共通のイデアがあるとするなら、イデアは倫理的事態、道徳的価値だけでなくあらゆるものにイデアを認めなければならない。プラトンのイデア論は普遍的「本質」実在論にまで発展したと井筒氏は主張する。

 東洋哲学を顧みると、まず孔子の正名論が浮かび上がるという。井筒氏の説明を追ってみよう。プラトン哲学とは思惟方法が著しく違うにもかかわらず、永遠不易の普遍的「本質」の実在性を信じ、それによって紛乱する感覚的事物の世界を構造化し秩序づけようとする根本的態度においては、イデア論と正名論とは一であると井筒氏は主張する。

諸子百家時代と呼ばれる古代中国の時代には、「名実論」が発達していた。「名」は言語、「実」は語の指示対象である実在する事物をいう。すべての語は一定の指示対象があり、この「名」と「実」の関係を、つまりどのように両者が本来結びつくのか、あるいは結びつくべきなのかを考えるのが、「名実論」の中心である。孔子は「正名論」として「名実論」の根本問題を提起したと井筒氏はいう。

「名を正す」とは「名」お「実」に合わせて「名」を使うような社会状況を作り出すことであるが、孔子にとって「実」とは個体としての物ではなく。物の「本質」を意味する。すべての事物に普遍的で永遠不易の「本質」がある。「名」は「実」に対して志向的に制定されたものであるから、本来は一対一の関係があるのだが、人間生活の現実においては「ずれ」が生じる。つまり「名」と「実」の不整合は孔子にとって社会秩序の混乱を意味していた。孔子の眼には「本質」喪失の時代が映し出され、そのような時代の潮流を防ぎとめるには「名」と「実」の間に齟齬のない状態に引き戻すしかない、「必ずや名を正さんか」という、「正名」の意味論的理念が生まれたと井筒氏はいう。例えば、「王」という語は王という「本質」を具現している個物にのみ適用されなければならない。王の「本質」を体現していない人を「王」と呼ぶとき、「名」と「実」の関係が乱れる。ということは「王」と呼ばれる人物は、王なるものの「本質」を自覚し、「本質」の体現者として存在し行動しなければならないということを意味する。孔子は社会生活だけでなく、家庭内においても、個人の内面においても「名」と「実」の不一致をいたるところで目撃する。

孔子の「正名論」は、若い時代のプラトンの「イデア論」と同様に主たる関心は倫理的価値である、つまり人間の倫理的、道徳的属性の「本質」のみを孔子は第一義的問題としたと井筒氏はいう。中期以後のプラトンのようにあらゆるものに「本質」、イデアを見ようとしたプラトンとは関心のあり方が異なっていた。しかし孔子以後の名実的思想の発展において倫理的価値だけでなく永遠不変の「本質」を認める普遍的「本質」実在論に展開していったと井筒氏はいう。

 荘子は孔子の「正名論」を否定した。老子を含め荘老の反「本質」主義は、禅の無「本質」的存在分節と同じ型に属するが、荘老の「本質」否定は意識的に衝突する点で、逆に正論を裏側から補説するものになっていると井筒氏は指摘している。

 それでは、荘子と孔子の「正名論」との差異はどのようなものであったのか見てみよう。

 不変不動の「本質」を倫理主義的階級組織に組み立てることによって、存在世界を一つの永遠的価値体系に作り上げてしまった孔子の世界像の前で、荘子は不自由な世界と嘆いた。そもそも、ものの「名」は社会的慣習に過ぎないのではないか、たまたま、の「名」で呼ばれているのであって、それでものが「本質」的に固定されてしまうような世界に自由はない。世界をそのようにみることは歪曲以外の何ものでもない。存在の真相はカオスだと荘子は主張すると井筒氏はいう。外側は分割されているがほんとうは一枚岩のようなもので、表の複雑な区劃はすべて見せかけのものである。その見せかけの区劃の線をコトバが引く。それを人はものと呼んでいる。その後の意味が、ものの「本質」と間違えられる。コトバの意味の指示する「本質」もまた恒常的で固定されたものができ上るが、荘子は、言葉に恒常性はないという。

 「夫れ、道は未だ始めより封(ほう)あらず。言は未だ始めより常あらず」

                          (「斉物論」第二)

(存在真相には境界線などまったくないし、言葉には、元来、意味の恒常性など全然ない)

 言語的意味によって「渾敦」(こんとん)の表面に引かれた意味の区劃線を存在的区劃線と思い込み、恒常的な「本質」によって固定されたものの実在をそこに幻想する。ほんとうはすべて「存在の夢」なのだ荘子はいうと井筒氏は説明する。「存在の夢」でしかない事物に、正邪、善悪、美醜、などの区別を孔子のように設ければ、「本質」的に正しいと思い込んでしまうことになる。荘子の言わんとすることは、何もなかった地上に、人々がそこをよく歩くことによって、自ずと道ができ上がるようなものだということ。つまりすべては相対的なものにすぎず、そういう世界に人間は住んでいるということ。井筒氏によると孔子と荘子の違いは、思想展開の原点がそれぞれ別の意識層にあることからくるものだという。表層意識と深層意識の対峙、日常的、経験的意識の存在観と深層意識体験の存在観の対峙であるという。

 荘子の「混敦」は、存在が一切の「本質」的区別を失って無差別性を露呈する、つまり観照するということであると井筒氏は説明する。禅の無意識の成立過程を述べたとき井筒氏は三角形を使った。三角形の頂点に位置する、すべてが無のうちに消滅する、存在の無「本質」的分節の境位であると井筒氏はいう。したがって孔子の正名論は三角形の底辺部で成立する立場であり、それらのものの内部に「本質」を見る。つまり「コトバの志向性の方向の先端に、実在する永遠不易の普遍的本質を認める」ことになるという。孔子の場合には倫理的見地から独特な価値観と絡み合うゆえに、一般の「本質」の実在性の主張とは違うと井筒氏はいう。

孔子の正名論をもっと純粋に普遍的「本質」の実在論を主張するものに、インド思想のヴァイシェーシカ派ならびにそれの姉妹学派ニヤーヤの諸説があるという。それらは外的世界に内在する事物を、我々の感覚器官は、直接、無媒介的に認識する。ヴァイシェーシカにとって普遍者も外的に実在するものであって、人は個別者に内在する普遍者を、個別者とともに知覚するという。

 常識的な考えでは、外的にあるさまざまな花、それぞれが独自である点では同じである。この表層意識的認識体験から、花という抽象的概念(概念的普遍者)を取り出す。

ヴァイシェーシカでは、「不定知覚」という、花として認識する前の段階を想定する。花を見ているが花として見ていない。それが現存しているだけである。この段階ではこれとあれの区別はなされている。しかし、花としてのこれが、蝶としてのあれと区別されていない。「花」というコトバが意識に浮かんでいないのだという。不定的,無限的にが現れているだけであり「本質」規定を受けていないと考える。

認識の第一段階は、との言語以前の身体的接触であった、次の段階から反省すれば。

第二段階で初めて言語的認識となる。「花」というコトバが意識に浮かび、それが意識に浮かび、それがと結びつきは花であるものとして現れる。つまりは「本質」限定を受ける。そのように受け止めたは主観的体験として個物であるが、構造的には、普遍性にからみ付かれた個物、普遍者の内在する個体である。「ニヤーヤ・スートラ」では、語の意味対象とは、個体と形象と普遍者の三側面を一つにしたものである。個体としての花の認識は、それに内在する普遍者「花」を通じてのみ可能なのであると井筒氏は説明する。しかも井筒氏が注意を促すのは、ヴァイシューシカの認識論では、第一段階の「不定知覚」も第二段階の「限定知覚」も表層意識の領域で起こる事態であるということである。

 先に挙げた第一段階において「次の段階から反省すれば」という説明から、経験的「有」の未定態からの飛躍は何よって行われるのか興味あるところである。私には詩人の経験と類似したものがあるように思われる。その「限定知覚」の段階で現れる「本質」が表層意識内で意識され、外界に実在するものとして見られるところも詩人の経験と共通したところが感じられる。井筒氏は「本質」肯定論第一型と区別しているが、プラトンのイデア論も第三型としている。イデア論を形而上的に見るのではなく、あくまで外的な実在者と見る。しかしイデアを知るには現実において表層意識であれ深層意識であれ体験的プロセスが必要とされる。井筒氏が述べたリルケ体験、つまり「意識のピラミッド」の深部に存在者の深部を探ろうとすることとはいかなる違いがあるのだろうか。「深層体験を表層言語でしか解消されない」としても。かつて井筒氏は初期の論文『神秘哲学』でプラトンについて熱い言葉で述べた。イデアへの向上道と下降道があることを説いた。イデアとは感覚的世界のこの世から遠い永遠的世界に成立するものであり、そこにたどり着いたものはそこから感覚的世界に降り立つことで完成する。我々の見る事物はイデアの仮象と捉えるが、イデアにたどり着くにはこの世界での経験なくしてありえないだろう。

 孔子の正名論もプラトンのイデア論も、またヴァイシェーシカの認識論も井筒氏は第三型に入れている。それらは深層意識的「本質」を求めず、外界に実在する普遍者を想定するからである。外界に客観的に実在するという考えは、概念的普遍者に変成していく可能性を内蔵していると井筒氏はいう。そして表層的に働く思惟は、存在論と概念論を混同しがちであると井筒氏はいう。井筒氏の遺書となった『意識の形而上学』のあとがきで、井筒氏の今後の研究テーマを示すメモが掲載されている。そこではプラトン哲学についてさらに発展される意向が垣間見られるが、『意識と本質』を書きあげた時点では、東洋哲学における、認識と意識と存在のからみあいは複雑で多層的であり、構造を追求すればどうしても「本質」の実在性の問題に逢着するので、自然に概念論に転換するであろうと井筒氏は述べている。それは「概念構造理論」として新たな一章を必要とするであろうとも。

 十八回にわたって井筒俊彦『意識と本質』解読を掲載してきましたが、次回から新しく『意識の形而上学』解読をしていきます。

 

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