ヒーメロス通信


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連載エセー⑰存在の深層意識的言語哲学理論その二、井筒俊彦『意識と本質』解読。小林稔

2013年02月23日 | 井筒俊彦研究

 

連載/第十七回

 

「時間を超えたところから時間の流れに沿って起こってくる不断の世界創造。」

 

深層意識的言語哲学理論その2

小林稔

 

 「元型」イマージュの「想像的」エネルギーが表層意識にたどり着いたとき、象徴機能が働くが経験的現実全体をそっくりそのまま象徴化するものではないという井筒氏の指摘を前回において述べたが、一方、M領域(中間地帯)では全存在世界が一つの象徴体系を具現化する。経験的世界では有「本質」的分節によって認識しかかわりあう無数の事物かなるが、存在分節の根はもっと深く、意識の深いところで起こっていて、表層意識で見る事物の分節は、深層での第一次的分節の結果の第二次的展開に過ぎないと井筒氏はいう。

 空海は、そうした存在分節の過程を逆に辿っていき、意識の本源にたどり着いたところを、彼の著作『十住心論』では「自心の源底」(法身)と呼び、大日如来として形象化する。したがって、空海にとっては、存在界の一切が究極的、根源的には大日如来のコトバであると井筒氏は説明する。

 

「名の根本は法身を根源となす。彼より流出して、しばらく転じて世流布の言となるのみ」                                                                       空海『声字実相義』

 

 井筒氏のよると、大日如来のコトバとして展開する存在リアリィテーは、絶対的究極の一点において「空」であり、龍樹以来の大乗仏教に属するが、他の諸派に対して、空海の「空」は「肯定的側面」を強調するものである。大乗仏教の「空」、すなわち「絶対無分節者」は、形而上学的「無」の側面と、現象学的「有」に向かう側面に分かれる。空海にとっては、「法身」すなわち「無」は「有」の充実の極であり、「有」のエネルギーは外に発出しようとするという。その生起の始点において、「法身」は根源的コトバであり、絶対無分節のコトバであって、あらゆる存在者の意味の意味、全存在の「深秘の意味」であり、無数の意味に分かれ深層意識内に顕現するが、その一時的意味分節の場が言語アラヤ識で一度分節されると、「想像的」形象として顕現する場が意識のM領域であると井筒氏はいう。「深秘の意味」が言語アラヤ識に直結する最初の一点、コトバの起動の一点を真言密教では、絶対無分節者が分節に向かって動き出し第一歩、「ア」音として捉える。「阿字真言」「阿字本生」であると井筒氏は説明する。「ア」音は大日如来の口から最初に出る声である。その声とともに意識が生まれ、全存在界が現出するという。

 

「凡そ最初口を開く音に、みな阿の字あり。もし阿の音を離るれば、すなわち一切の言説なし。故に衆声(しゅうしょう)の母となす。凡そ三界の語音は、みな名に依り,名は字に依る。故に悉曇(しったん)のア阿字を衆字となす。まさに知るべし、阿字門真実の義も亦是(かく)の如く、一切の法義の中に偏ぜり」 空海『大日経疏』

 

 このような深層意識的言語哲学というものは普遍的現象は、ユダヤ教神秘主義やカッバーラ(十二世末頃からヨーロッパに起こったユダヤ教神秘主義)の言語哲学と根本的ヴィジョンは同じであると井筒氏はいう。「コト」は言であり事であるという、つまりコトバと事物を同一視するのは日本語だけでなく、ヘブライ語も同様である。それらは存在世界の「深秘」構造を考える。表層意識の経験的世界を存在世界とは見ずに深層意識の見る深秘の世界としての存在世界を、神のコトバの世界、神的言語の自己展開とする。コトバこそ神をして創造主たらしめる秘密の存在エネルギーと考えると井筒氏は説明する。カバリストの思想は、基本テキスト『ゾーハルの書』では、神の絶対的創造性が「無」の深淵から働き出してくる神のコトバのエネルギーとして捉えられているが、それは神のコトバの源泉である「無」が神自身の中にあることを示唆していると井筒氏はいう。「無」を神の外に置くか、神の内に置くかは大問題を引き起こした。カッバーラーでは、神の内的構造それ自体の中に「無」の深淵を見て、その「無」が「有」に転換する。その転換点がコトバであるとするという。語の構成要素として子音や子音の組み合わせに存在分節的機能を認める。子音だけを語の第一次的形成素(語根)とするのは、セム系言語一般の通則であり、これを神の世界創造、あるいは神の自己顕現の通路と考え、そのうえに象徴的言語理論を立てるのはカッバーラーの特徴であると井筒氏は指摘する。

 

「太始(はじめ)に言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき。」 『ヨハネ福音書』

 カバリストにとって一切万物の始源にコトバがあったのであり、コトバは神であったという文字通りの意味であるが、「はじめに」というコトバは時間的始まりを意味しないと井筒氏はいう。我々にとっては「時間」であるが、カバリストにとっては、どの一点を取っても「はじまり」であり、神の創造の業は、時々刻々に新しく、しかも同一の過程を通って我々自身の内部に実現しているという。「時間を超えたところから時間の流れの中に向かって起こってくるこの不断の世界創造の過程を、神的コトバの自己展開とする」カッバーラーの存在論と、真言密教のそれは、コトバが根源的に存在分節の動力であるという点で、共通する特徴があると井筒氏は主張する。

 

 井筒氏の説明によれば、カッバーラーにおいては、「アーレフ」の一文字が自己展開して他の二十一個の「文字」になり、相互に組み合わされて無限数の語を作り出すという。空海の阿字真言は、「ア」は一個の母音であるが、「アーレフ」は「ア」という母音そのものの発音を起こす開始の子音であるという。「アーレフ」から語にいたるコトバの自己展開の全過程が神自身の自己展開であり、神の内部の深みで起こる事柄である。この神の内部で形成される「文字」結合体の意味を、カバリストは意識のM地帯に立ち現われる「想像的」イマージュとしての追体験、あるいは同時体験していくだけであるという。コトバの自己展開の過程の初段階で経験的世界成立以前に神の名の世界が現成する。それは存在「元型」ばかりからなる独自の超現実的世界であり、それらの「元型」を「セフィーロート」と呼ぶという。「セフィロート」とは経験的現実の世界の中で出合うすべての事物の永遠不易の「元型」であるという。

 

 ラビ的ユダヤ教とカッバーラー

 井筒氏によると、ラビたちの思想は『旧約』時代以後の主流であった。神を絶対的超越性に追い手順化しようとした。つまり、地上的、人間的匂いのつきまとう一切の神話的表象を神から取り除こうと、律法から神話的形象、象徴的イマージュを一掃することに努力したが、それに反抗するようにして、十二世紀後半、フランスのラングドック地方のユダヤ人の間に起こり、十三世紀には南フランス、スペインを中心として精神主義的一大運動を形成し、今日に至ったという。カバリストたちはラビたちの合理主義に反抗し、シンボルの氾濫のうちに神の実在性を読み取ろうとした。シンボルとはカバリストたちのとって「神の内面が外面に現われるに際して取る根源的イマージュ形態であるという。

 神は絶対無限定的な存在エネルギーで、内から外に発出されるいくつかの発出点があり、その充溢は発出点において無限定のエネルギーが限定される。それがカバリストの見る「元型」であると井筒氏は説明する。「元型」は様々なイマージュを生み出す。その神の内的構造を原初的に規定するそれらの「元型」が彼らのいう「セフィロート」であると井筒氏は解く。無限定のエネルギーが限定される「元型」の数は誰にもわからないが、便宜上、十個に限定した「セフィロート」こそが、相互聯関形態を取って神的生命の自己表現の形を提示するという。言語的には、「セフィロート」は「セフィー」の複数形で「数」を意味し、「セフィロート」は、ユダヤ神秘主義の基本文献第一の「宇宙形成論」(西暦三世紀、作者不明)で、存在形成的能力を内蔵する神秘的数を意味したと井筒氏はいう。十二世紀に「清明の書」で完全にカッバーラー化され、神的「元型」という意味での「セフィロート」に展開されたと井筒氏は説明する。

 

 十の「セフィロート」の解説(P261)

第一は「ケテル」(王冠という意味)。存在流出の究極的始原。純粋「有」、絶対的「一」である。仏教でいえば「空」、すなわち「真空妙有」の「妙有」的側面にあたり、一切の「多」を無分節的に内蔵する。

第二は「ホクマー」すなわち「叡智」。仏教の「般若」に相当する。カッバラーではこれを神の自意識とする。際限のない空間に独り燦爛と輝く巨大な太陽。太陽からの光線が結晶して経験的事物の「元型」になる。矛盾し相容れないものも、この「元型」の中では一となる。神は一者として自らを覚知する。

第三はビーナー。神が自らを映して内面をあるがままに観想する。神は自らのうちに多者を見る。最初の存在分節が起こる。神的実在の一者性それ自体の中に起こる事態で、神の内面事態としては多者も一である。ここで成立する存在論敵様態は、密教の次元では「種子」である。「ホクマー」が父であるのに対して、「ビーナー」は母である。神の内面の女性的要素とする。

第四は「ヘセド」つまり「慈愛」である。「ビーナー」を母とする最初の子供。神の創造性の肯定的側面。律法の領域では「…せよ」という命令になる。人間の性質では、善。物質界の元素では水。理想的人間像ではアブラハムにあたる。

第五は「ゲヴ-ラー」すなわち「厳正」。神の存在賦与には厳正な制限が課せられるので、存在エネルギーの抑止力として現われる。律法的には「…するなかれ」という否定命令。人間の性質に現われては,悪。物質元素の中では火のイマージュ。イサクが元型を具現。

第六は「ティフエレト」すなわち「美」。一切の事物は「元型」的存在の次元において融合と調和をする。禅の無「本質」的分節の事態とよく似ている。すべての「セフィロート」のエネルギーがここに集まる。「神の心臓」。

第七は「ネーツァハ」すなわち「把持」。永遠不断の持続性。存在流出の連続性。「ティフエレト」に流入して融和しあった「元型」エネルギーの充溢が「ネーツァハ」という新しい「元型」となって現われてくる。

第八は「ホード」すなわち「栄光」。神に源を発する存在エネルギーは「ホード」のこの屈折力を通ってはじめて一切万物を「元型」的に分節する。

第九は「イェソード」すなわち「根其」。「ティフエレト」から発出して二分し、存在流出の男性的側面を具現する「ネーツァハ」と、女性的側面を具現する「ホード」が再び結合し生起する新しい「元型」。性質は徹底的に男性的で、形象的には男根。宇宙に遍満するダイナミックな生殖力。

第十は「マルクート」すなわち「王国」。神の支配する王国。最下に位置する。すべての「セフィラート」のエネルギーが一つになってここに流れ込む。この下には被造界が展開する。神の国に上る登り口、または神の家の敷居。神の内の女性的原理とされる。神自身の内面に働く根源的な女性的な要素。そのヴィジョンは、神が神自身の内面で、神自身と結婚するという「聖なる結婚」というヴィジョンに展開する。この点でヒンドゥー教の性力派タントラ、シヴァ紳のタントラ、道教の性愛的側面に著しく接近する。神の中で神と結婚する女性はユダヤ人の霊性的共同体としてのイスラエルに変貌して現われる。

 これら十個の「元型」が相互に聯関して作り出す全体システム(有機的体系)によって明らかにされる。

 

 次回、連載第十八回につづく。

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