ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

「コンコルド広場」 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』より掲載

2016年01月01日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社刊より

コンコルド広場
小林稔


セーヌの岸に沿って歩いて行くと、グランパレ、プチパレの円蓋が見え、さらに先にエッフェル塔の遠景がある。

                    私たちが引き寄せられるように向かうのはコンコルド広場だ。マリーアン

トワネットが処刑された地点にオベリスクが立っている。荒れ狂う海原に屹立し渡った、アレク

サンドリアから航海した記憶を夕陽の射したその切尖に留めて。

      この街の地下墓地の十字路には夥しい数の死者が葬られて、その間隙に、ミシェランの性能の良いタイヤ

が地下鉄の線路を、猛スピードで回転し続けている。

   
           突如、ショパンの楽曲が、今はマーラーの『シンフォニー四番』ではなくベートーベンの『皇

帝』でもない、私たちの脳裡を疾走したのはショパンの『バラード一番 』。

      青春の矜持は咲き乱れる紅い薔薇、終息することのない夢は海に注ぎ込む銀色の大河のように。

                    めくるめく音階を滑り降りて駆け上がり、息をついて再び駆け上がる高み

で、意を決して一段一段と降り、加速させ転がり落ちて行く。この街と私たちが別れる時は近づいている。

           
                生涯に再びこの地に立つことがあるだろうか。


 離れる私たちの後ろでオベリスクは一瞬、傾いたように見えた。

夏の微風に包まれ、夕暮れの空に聳え立つ金字塔、オベリスクよ、かつて無名の詩人がこの街で、ある時は哀しみに心

を裂き、ある時は夢に燃えた青春のあったことを永遠に記憶せよ。

                               私たちの視線の先、シャンゼリゼ通りの真ん中に

凱旋門が悠然と立つ。街灯が光を放ち、闇をいっそう深くしていた。



copyright 2003 以心社


「カナリア諸島」と「アンモナイト」 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』より二篇

2015年12月26日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

カナリア諸島
      小林 稔


アンダルシアの野を縫って行くのろい列車が
とある駅で停車したきりいっこうに走らない
シエスタにも飽いた私のかたわらに
私と同じ一人旅の青年がやってきた
夏を取り込んだひまわりの種を頬ばりながら
イビサは地中海に浮かぶすばらしい島だという
瞳が海に照り返す光のように輝いている
夏の名残りの陽光が射した列車で

だが私がほんとうに行ってみたいのは
アフリカ大陸の西、海を隔てたカナリア諸島
スカンジナビア半島からイベリア半島に南下する私を
砂漠のカナリアになぞらえたがついに果たせなく

アフリカの夜
サハラに太陽が沈んで一つの町が消えると
世界が再生するのをひたすら待つしかない
海峡に揺られモロッコから還った私は
ヨーロッパの心臓、剃がれた神経の中枢
私がそう呼んだパリに、青春の導火線を抱え
ためらうことなく一直線に翼を広げた
運命にもてあそばれたかつての苦い記憶
 





アンモナイト
      小林 稔


 屋根裏の住人になって一ヶ月が過ぎた。午前五時。不眠症に陥ってい
る私がクロワッサンを買いに行く時刻である。外気を入れようとしたが、
小さな両開きの窓が凍り付いて動かない。いつものように階段を降りた。
この螺旋状の階段を日にいく度となく昇り降りしているが、廻りながら
私の脳髄にアンモナイトの形状が刻み込まれていく。左に巻かれたネジ
が降りる時には右に巻かれるので、かろうじて脳髄の平衡感覚は保たれ
ていた。三階の裏口を通過しようとした時、昇って来る若い女性に逢っ
た。手には、三本のフランスパンのバゲットの突き出た籠を持っている。
 「ボンジュール、ムッシュウ 」
消え入るような声が彼女の口から洩れると、私とすれ違うためアンモ
ナイトの薄汚れた内側の壁に彼女は体を寄せた。緊張した様子が彼女の
こわばらせている顔の引きつった表情から窺える。私が通過すると彼女
はすぐに昇り始めた。どこかの階の女中なのかもしれないと思いながら
私は降りて行った。中庭の片隅にはまだ夜の空気が押しやられて逃げ場
をなくしているような気がした。
 十二月初旬の朝は皮膚の毛穴を針で刺されたように痛い。エラン通り
を歩き、メキシコ広場に伸びたロンシャン通りに出ると、黒人の労働者
が舗道を清掃している。メキシコ広場まで来ると、一対の弧を描いて並
ぶショイヨー宮が見え、さらにセーヌを越えたところにエッフェル塔が
聳えている。ロンシャン通りに戻ると、勤め先に足早に向かう人々の姿
が一定の流れを作り始めている。果物屋には真っ赤なりんごがきれいに
顔を揃え、カフェが開店の準備をする。パリの日常生活があちらこちら
で動き出す。私はパン屋でクロワッサンを買い、あのアンモナイトの内
側の螺旋階段を左回りに廻って屋根裏に帰る。カフェオレを作って飲み、
クロワッサンを頬ばった後に休息を求めて眠りにつく。

 屋根裏に住んで一ヶ月をいく日か過ぎたころであった。家賃の支払い
をするため、マダム・Dのいる二階の扉の呼び鈴を押した。部分照明の
せいで薄暗いエントランスが開いた扉から見えて、マダムの姿が影絵の
ように浮かんだ。おっとりとした物腰で言った。
「あなたに逢わせたい人がいるの、来てくださらない? 」
彼女の背について歩き、廊下を折れ、私が一週間に一度だけ入りに来
る浴室の扉と反対側にある扉のところで立ち止まったマダムは、その扉
を叩いた。眼鏡をかけた小柄な青年が顔を出した。私とほぼ同年の小柄
な日本人の青年である。「昨日からここに住んでいるんですよ。」そう言
って彼女は紹介する。「 あなた、まだどこへも行かずにぶらぶらしてい
るようね。学校へ行ったらどう? 」私にそう言うと彼女は立ち去った。
私のパリ滞在の目的が彼女には理解できないのだ。部屋の中に入ると二
人の青年がいた。一人はサングラスをした大柄で体格のいい年上の青年
で盲目の針師であり、もう一人は二十歳ぐらいの痩せた大学生であった。
初めに顔を見せた青年は、フランス文学専攻の大学院生であることが分
かった。針師と一緒に日本から来たところに、旅をしている知り合いの
大学生が、かねてから約束していたパリで落ち合ったというのである。
私も自分の身の上を語り、いつのまにか話はランボーに及んだ。彼らの
眼には、私は詩を書かない詩人と映ってしまったようである。ランボー
は詩を棄て(中断?)アフリカの商人になったが、私はやがて詩を書く
ために、原初の経験に舞い戻ったのだ。ランボーの『イリュミナシオン』
を読まなければ、私は詩を書き始めることはなかったのは事実であるが、
詩を棄てようと思ったことは一度もない。私は言わば沈黙を強いられて
しまったのだ。築くべき生活をないがしろにして言葉の世界に深く沈潜
してしまった結果、日常生活から言葉を奪われたのだと思う。詩人は仕
事をこなし家庭を持ち日常にこよなく耐え、詩を開花させている。意識
では日常生活に抵抗するが、言葉だけの「この世の外」への脱出を夢見
ている。私が思い描く詩人に何と遠いのだ。言葉だけの世界で詩を書い
ていた以前の私は間違っていた。空白になった「生活」を移動する日常
で見つめ考え、築き上げようと旅立ったのだ。東京で暮らしていた私は、
混沌の海原に漂泊する一枚の葉のようであった。言葉は配列を忘れ、思
考はばらばらに崩れ、名づけられない物質たちが私を狙っていた。それ
でも詩を書く欲求は衰えなかったが、言葉は砂のように掌からこぼれ、
私を取り巻く世界は私によそよそしかった。一種の恐怖だけが私に残っ
た。詩を書くことは不可能であったが、そうであるだけに飢えを満たす
ように本に喰らいついた。言葉で世界を創造するには、なんと多くの経
験を必要とするかを知ったのだ。< changez de vivre >という詩人ラ
ンボーの叫びが詩を書く私から立ち去ることはないだろう。欠落してい
たのは密室の窓を解き放つことであった。私自身の変革が求められた。
生きるということを旅の過程で掌握しようと思ったのだ。書物は多くを
授けてくれるが、その真実は一人の〈私〉の行為に証されるのでなけれ
ば教養に終わる。まして詩人においては彼の生の他にどこに求められよ
うか。経験から世界を組み立てなければならない。そう思った時、砂漠
が見え、砂漠の向こうに、街々の喧騒があり、私を待ち受けているよう
に思われた。
 生活を求めて出発しよう。西欧から東に向けて辿り、目標は日本であ
る。私の出発を、このまま帰ってこなければ神話だ、と言った詩人は間
違っていた。私という身体に精神の根を張りめぐらすための旅であった。
一般にランボーについて考えられているような西欧社会(私にとっては
日本社会)からの脱出ではなかった。現実からの逃亡では無論なかった。

 それから二週間ほどしたある日、彼らの大学時代の教授で詩人でもあ
るランボー研究家のS氏が、一ヶ月の休暇を取ってパリに来ているとい
うので、彼らと親しくなった私はS氏のアパルトマンを、一緒に訪ねる
ことになった。S教授の語るところによると、フランス人は日本人が考
えるほどにランボーを天才詩人と思っていないらしく、「 道を歩けばラ
ンボーに当たる」と言うらしい。私が陸路でインドへ行くことをうらや
ましいと言った。詩人が小説を書くということが話題になっていた時期
であったので、その話になった時、そういう人はもともと詩人ではなか
ったのだ、登場人物を設定し話を作ることに興味がもてないのだという。
日本でランボー全集が企画され、彼が重要な訳者であった。ワインで眠
気を催したS教授はテーブルを離れ、ソファーに身を沈め目蓋をきつく
閉ざした。ジャコメッティの彫像を思わせる容貌の彼が、苦悩を耐えて
いるように眠り続けている。私たち四人はS教授に別れを告げ、地下鉄
を乗り継いでマダム・Dの住居に帰った。始終はしゃいでいる彼らの傍
らで、私は詩に導かれここまで来た自分を顧みて無口になっていた。S
教授にとって、詩とは言葉と行為を天秤の左右の皿にそれぞれ載せ、わ
ずかに重く傾く言葉の所在を探り出すことなのではないだろうか。私は
行為の果てに獲得する言葉を発見しようと躍起していた。

 早朝、地下鉄のクリニャンクール駅から地上に出てしばらく歩いて行
くと、ハンガーにつるされた洋服が迷路のようにいく列もの壁を作って
いた。防寒用のコートを買ってすぐに着た。ここがマダム・Dから聞い
ていた蚤の市であった。奥に進むにつれて洋服以外の生活必需品が見え
てきた。シャンデリアに使われていた一個一個の硝子の部品がばら売り
されている。椅子とテーブルなどの家具が道端に積まれ、その奥に電気
スタンドに囲まれ、椅子に腰を降ろして煙草をふかしている老婦人がい
た。その中の一つに付いた値札を見ると三十フランと書かれていた。薄
いベージュのレースを貼った傘が気に入り、モロッコでしたように値下
げをするよう老婦人に頼むと、彼女は頬笑んで頷き、小さな紙切れに鉛
筆を走らせ私に手渡した。二十六フランという文字があった。おそらく
それ以上値切るのは無理だろうと思い買った。さらに奥に入り、かなり
年季の入ったフライパンも買った。ここには生活に必要なものすべてが
ある。歩き疲れたので、蚤の市の入口近くにあるカフェに入った。苦い
カフェ・エキスプレスにずいぶん慣れてきていた。しばらくして店の一
角からジャズが流れてきた。若い青年たちのグループが演奏しているの
だ。久しぶりに聞くジャズに爽やかな気分になり、終わると私も思わず
拍手をした。ベースを弾いていた青年が黒い帽子を手に、カフェのテー
ブルをめぐり歩いている。客は硬貨を入れているようだ。私のテーブル
まで来た時、しぶしぶ五フランを一枚入れた。路上でなら立ち去ってし
まえるのに、ここではそうすることができないから仕方がないだろう。

 寒さが身に堪えるようになりマダム・Dにそのことを話すと、カーテ
ンの生地と古びた豆炭ストーブを持って私のいる屋根裏にやって来た。
布を切り針で縫い、素早くカーテンを仕上げた。内側まで凍り付いてし
まうことがある小さな窓にそれを掛けた。電気のコードに挟みを入れた
ので私が思わず叫んだが、火花が一瞬飛んで、マダムは目を丸くして身
をかがめた。差し込んだままのコードを切ったのであった。私が買った
電気スタンドのコードが短かったために彼女が長くしようとしたのであ
る。豆炭ストーブはすぐに暖まらなかった。こんな代物と思ったがない
よりはいいのだ。

 二階の日本人たちの帰る日が来た。マダム・Dのベトナム人の夫が車
に乗せて鉄道駅まで送って行くというので、私も便乗した。彼らと駅で
別れ、ベトナム人の運転する車がピーガールの歓楽街の人だかりのある
道に入り込んだ時、警察官が車の前方に立ち、不審そうに私たちの顔を
覗き込んだ。免許証の提示を求めただけであったが、アジア系やアフリ
カ系の人々が集い遊んでいる夜のパリと、そこで眼を光らせる警察官の
横柄な表情に、この街に巣食う欲望と退廃の一端を、偶然にも見てしま
ったような気がした。

 昼に私の部屋の扉を強く叩く音がした。鎖を固定し扉を少し開けると、
知らない日本人青年の顔があった。マダム・Dに聞いて来たのだと言っ
た。中に入るように伝え、扉の鎖を外した。あの日本人たちがこの間ま
でいた部屋を借りている、私よりいくつか年長の男であった。料理の修
業でパリに昨日来たのだという。彼はこの街の女性に興味があるらしく、
私が知り合いになった女の子はいないか訊くのであった。いろいろな人
がいるものだと思った。昨夜、近くのまだ歩いたことのない通りを散歩
していた時、新聞や週刊誌を売っている屋台のような移動式の店を見た。
週刊誌の表紙に性器をあらわにしたグラビア写真を目にして驚いたので
そのことを話すと彼は眼を輝かせた。娼婦が並ぶ通りがあるらしいこと
も旅行者から聞いて私は知っている。私には関心がない事柄である。






 

 屋根裏の住人になって一ヶ月が過ぎた。午前五時。不眠症に陥ってい
る私がクロワッサンを買いに行く時刻である。外気を入れようとしたが、
小さな両開きの窓が凍り付いて動かない。いつものように階段を降りた。
この螺旋状の階段を日にいく度となく昇り降りしているが、廻りながら
私の脳髄にアンモナイトの形状が刻み込まれていく。左に巻かれたネジ
が降りる時には右に巻かれるので、かろうじて脳髄の平衡感覚は保たれ
ていた。三階の裏口を通過しようとした時、昇って来る若い女性に逢っ
た。手には、三本のフランスパンのバゲットの突き出た籠を持っている。
「ボンジュール、ムッシュウ 」
消え入るような声が彼女の口から洩れると、私とすれ違うためアンモ
ナイトの薄汚れた内側の壁に彼女は体を寄せた。緊張した様子が彼女の
こわばらせている顔の引きつった表情から窺える。私が通過すると彼女
はすぐに昇り始めた。どこかの階の女中なのかもしれないと思いながら
私は降りて行った。中庭の片隅にはまだ夜の空気が押しやられて逃げ場
をなくしているような気がした。
十二月初旬の朝は皮膚の毛穴を針で刺されたように痛い。エラン通り
を歩き、メキシコ広場に伸びたロンシャン通りに出ると、黒人の労働者
が舗道を清掃している。メキシコ広場まで来ると、一対の弧を描いて並
ぶショイヨー宮が見え、さらにセーヌを越えたところにエッフェル塔が
聳えている。ロンシャン通りに戻ると、勤め先に足早に向かう人々の姿
が一定の流れを作り始めている。果物屋には真っ赤なりんごがきれいに
顔を揃え、カフェが開店の準備をする。パリの日常生活があちらこちら
で動き出す。私はパン屋でクロワッサンを買い、あのアンモナイトの内
側の螺旋階段を左回りに廻って屋根裏に帰る。カフェオレを作って飲み、
クロワッサンを頬ばった後に休息を求めて眠りにつく。

 屋根裏に住んで一ヶ月をいく日か過ぎたころであった。家賃の支払い
をするため、マダム・Dのいる二階の扉の呼び鈴を押した。部分照明の
せいで薄暗いエントランスが開いた扉から見えて、マダムの姿が影絵の
ように浮かんだ。おっとりとした物腰で言った。
「あなたに逢わせたい人がいるの、来てくださらない? 」
彼女の背について歩き、廊下を折れ、私が一週間に一度だけ入りに来
る浴室の扉と反対側にある扉のところで立ち止まったマダムは、その扉
を叩いた。眼鏡をかけた小柄な青年が顔を出した。私とほぼ同年の小柄
な日本人の青年である。「昨日からここに住んでいるんですよ。」そう言
って彼女は紹介する。「 あなた、まだどこへも行かずにぶらぶらしてい
るようね。学校へ行ったらどう? 」私にそう言うと彼女は立ち去った。
私のパリ滞在の目的が彼女には理解できないのだ。部屋の中に入ると二
人の青年がいた。一人はサングラスをした大柄で体格のいい年上の青年
で盲目の針師であり、もう一人は二十歳ぐらいの痩せた大学生であった。
初めに顔を見せた青年は、フランス文学専攻の大学院生であることが分
かった。針師と一緒に日本から来たところに、旅をしている知り合いの
大学生が、かねてから約束していたパリで落ち合ったというのである。
私も自分の身の上を語り、いつのまにか話はランボーに及んだ。彼らの
眼には、私は詩を書かない詩人と映ってしまったようである。ランボー
は詩を棄て(中断?)アフリカの商人になったが、私はやがて詩を書く
ために、原初の経験に舞い戻ったのだ。ランボーの『イリュミナシオン』
を読まなければ、私は詩を書き始めることはなかったのは事実であるが、
詩を棄てようと思ったことは一度もない。私は言わば沈黙を強いられて
しまったのだ。築くべき生活をないがしろにして言葉の世界に深く沈潜
してしまった結果、日常生活から言葉を奪われたのだと思う。詩人は仕
事をこなし家庭を持ち日常にこよなく耐え、詩を開花させている。意識
では日常生活に抵抗するが、言葉だけの「この世の外」への脱出を夢見
ている。私が思い描く詩人に何と遠いのだ。言葉だけの世界で詩を書い
ていた以前の私は間違っていた。空白になった「生活」を移動する日常
で見つめ考え、築き上げようと旅立ったのだ。東京で暮らしていた私は、
混沌の海原に漂泊する一枚の葉のようであった。言葉は配列を忘れ、思
考はばらばらに崩れ、名づけられない物質たちが私を狙っていた。それ
でも詩を書く欲求は衰えなかったが、言葉は砂のように掌からこぼれ、
私を取り巻く世界は私によそよそしかった。一種の恐怖だけが私に残っ
た。詩を書くことは不可能であったが、そうであるだけに飢えを満たす
ように本に喰らいついた。言葉で世界を創造するには、なんと多くの経
験を必要とするかを知ったのだ。< changez de vivre >という詩人ラ
ンボーの叫びが詩を書く私から立ち去ることはないだろう。欠落してい
たのは密室の窓を解き放つことであった。私自身の変革が求められた。
生きるということを旅の過程で掌握しようと思ったのだ。書物は多くを
授けてくれるが、その真実は一人の〈私〉の行為に証されるのでなけれ
ば教養に終わる。まして詩人においては彼の生の他にどこに求められよ
うか。経験から世界を組み立てなければならない。そう思った時、砂漠
が見え、砂漠の向こうに、街々の喧騒があり、私を待ち受けているよう
に思われた。
 生活を求めて出発しよう。西欧から東に向けて辿り、目標は日本であ
る。私の出発を、このまま帰ってこなければ神話だ、と言った詩人は間
違っていた。私という身体に精神の根を張りめぐらすための旅であった。
一般にランボーについて考えられているような西欧社会(私にとっては
日本社会)からの脱出ではなかった。現実からの逃亡では無論なかった。

 それから二週間ほどしたある日、彼らの大学時代の教授で詩人でもあ
るランボー研究家のS氏が、一ヶ月の休暇を取ってパリに来ているとい
うので、彼らと親しくなった私はS氏のアパルトマンを、一緒に訪ねる
ことになった。S教授の語るところによると、フランス人は日本人が考
えるほどにランボーを天才詩人と思っていないらしく、「 道を歩けばラ
ンボーに当たる」と言うらしい。私が陸路でインドへ行くことをうらや
ましいと言った。詩人が小説を書くということが話題になっていた時期
であったので、その話になった時、そういう人はもともと詩人ではなか
ったのだ、登場人物を設定し話を作ることに興味がもてないのだという。
日本でランボー全集が企画され、彼が重要な訳者であった。ワインで眠
気を催したS教授はテーブルを離れ、ソファーに身を沈め目蓋をきつく
閉ざした。ジャコメッティの彫像を思わせる容貌の彼が、苦悩を耐えて
いるように眠り続けている。私たち四人はS教授に別れを告げ、地下鉄
を乗り継いでマダム・Dの住居に帰った。始終はしゃいでいる彼らの傍
らで、私は詩に導かれここまで来た自分を顧みて無口になっていた。S
教授にとって、詩とは言葉と行為を天秤の左右の皿にそれぞれ載せ、わ
ずかに重く傾く言葉の所在を探り出すことなのではないだろうか。私は
行為の果てに獲得する言葉を発見しようと躍起していた。

 早朝、地下鉄のクリニャンクール駅から地上に出てしばらく歩いて行
くと、ハンガーにつるされた洋服が迷路のようにいく列もの壁を作って
いた。防寒用のコートを買ってすぐに着た。ここがマダム・Dから聞い
ていた蚤の市であった。奥に進むにつれて洋服以外の生活必需品が見え
てきた。シャンデリアに使われていた一個一個の硝子の部品がばら売り
されている。椅子とテーブルなどの家具が道端に積まれ、その奥に電気
スタンドに囲まれ、椅子に腰を降ろして煙草をふかしている老婦人がい
た。その中の一つに付いた値札を見ると三十フランと書かれていた。薄
いベージュのレースを貼った傘が気に入り、モロッコでしたように値下
げをするよう老婦人に頼むと、彼女は頬笑んで頷き、小さな紙切れに鉛
筆を走らせ私に手渡した。二十六フランという文字があった。おそらく
それ以上値切るのは無理だろうと思い買った。さらに奥に入り、かなり
年季の入ったフライパンも買った。ここには生活に必要なものすべてが
ある。歩き疲れたので、蚤の市の入口近くにあるカフェに入った。苦い
カフェ・エキスプレスにずいぶん慣れてきていた。しばらくして店の一
角からジャズが流れてきた。若い青年たちのグループが演奏しているの
だ。久しぶりに聞くジャズに爽やかな気分になり、終わると私も思わず
拍手をした。ベースを弾いていた青年が黒い帽子を手に、カフェのテー
ブルをめぐり歩いている。客は硬貨を入れているようだ。私のテーブル
まで来た時、しぶしぶ五フランを一枚入れた。路上でなら立ち去ってし
まえるのに、ここではそうすることができないから仕方がないだろう。

 寒さが身に堪えるようになりマダム・Dにそのことを話すと、カーテ
ンの生地と古びた豆炭ストーブを持って私のいる屋根裏にやって来た。
布を切り針で縫い、素早くカーテンを仕上げた。内側まで凍り付いてし
まうことがある小さな窓にそれを掛けた。電気のコードに挟みを入れた
ので私が思わず叫んだが、火花が一瞬飛んで、マダムは目を丸くして身
をかがめた。差し込んだままのコードを切ったのであった。私が買った
電気スタンドのコードが短かったために彼女が長くしようとしたのであ
る。豆炭ストーブはすぐに暖まらなかった。こんな代物と思ったがない
よりはいいのだ。

 二階の日本人たちの帰る日が来た。マダム・Dのベトナム人の夫が車
に乗せて鉄道駅まで送って行くというので、私も便乗した。彼らと駅で
別れ、ベトナム人の運転する車がピーガールの歓楽街の人だかりのある
道に入り込んだ時、警察官が車の前方に立ち、不審そうに私たちの顔を
覗き込んだ。免許証の提示を求めただけであったが、アジア系やアフリ
カ系の人々が集い遊んでいる夜のパリと、そこで眼を光らせる警察官の
横柄な表情に、この街に巣食う欲望と退廃の一端を、偶然にも見てしま
ったような気がした。


「マドリード発、パり行き」 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』より掲載

2015年12月21日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

詩集『蛇行するセーヌ』(全127ページ)



目次
           
                      表紙の写真〓ウジェーヌ・アジェ「ATGET PARIS」より

1・マドリード発、パリ行き
2・ノートルダムの黒い男
3・ルーブル美術館初訪
4・アンバリッドとロダン美術館
5・Rue Herran 75016
6・カナリア諸島
7・アンモナイト
8・アリアンス・フランセーズの日々
9・シャルル・ド・ゴール空港
10・美の薔薇
11・ドーバー海峡を越えて
12・ストラッドフォード・アポン・エイボン
13・アンブルサイド
14・スカイ島
15パリとの再会
16・コンコルド広場
17・異国に死す
18・ヴィンセント
19・マルセイユ
20・コート・ダジュールの白い波
                          (許可なく本文の転写を禁止致します)


 1・マドリード発、パリ行き

 時の流れに残され夜の闇に沈んでいる旅の記憶が、踏みしめると枯葉
が崩れる乾いた音、路上を疾走する車が通り過ぎて私の身体をすり抜け
る微風に、今ここぞとばかりに甦る気配で歩みを止め空を仰ぐ。あの時
も確かに脈打っていた心臓の鼓動、青春時の苦悩と夢が胸を締めつけて、
人生という旅の途上にいる私にその在処を伝えている。


 アフリカのスペイン領セウタから渡航して再びアルへシラスに還った
のだが、モロッコのタンジェールに向かう時の心境とはなんという相違
だろうか。イスラムの影に引き寄せられるように彷徨し見たスペイン、
ポルトガルでの事物が、私の感覚に何ものかをすでに刻み、ジブラルタ
ル海峡の彼方の土地を踏もうとする私は、歓喜と不安で張り裂けそうな
胸を抑えられずにいた。アンダルシアの街々に足跡を残しアフリカ大陸
に近づいて行った時の、心の動揺をなだめすかしたスペインの明るい光
は、私に放浪の持つ喜びを与えた。今振り返れば、青春の盛りを迎えて
いたあのころの私を、石畳の路地裏に置いて来てしまったように思える。
だが、モロッコというイスラム圏を通過し終えた私は、スペイン人の鈍
く弛緩したような眼差しに苛立ちさえ感じていた。モロッコから帰還し
た私の心は、その先の未知なるものに向かっていたのである。


 海沿いの大通りを横切って、鉄道駅を左手に見ながら緩やかな坂道を
登って行くと、右にカーブして細い通りに出た。古びた民家を挟んで宿
屋が軒を並べている。扉を背にして椅子に腰を降ろし身を屈めている一
人の老いた男がいた。私の足の動きが眼に入ったのだろうか。疲労と眠
気からか焦点の定まらない眼差しで私を仰ぎ見た。
「どうだい、泊まっていかないかね」
一週間前に宿泊した私を憶えていないのだろうか。あの時と寸分違わぬ
表情である。モロッコの帰りに寄ってくれ、と私に約束させたではない
か。おそらく分かっている。だが私のような旅行者がとりわけて特別の
ことであるはずがない。
にわかに夕闇が辺りに立ち込めていたことに気づいた。そうだ、一週
間なんてあっという間に過ぎ去る時間なのだ。一つの旅が終わった、と
いう思いがいっそう明確に感じられた。私は老人に眼で別れを告げ鉄道
駅へ向かった。今来た坂道を下りて行くと、アルヘシラスの小さな駅に
着いた。灯りを燈さず駅舎が闇に包まれている。掲示板に書かれた白い
文字で、夜行列車の発つ時刻をようやく確認した。


 マドリード行きの列車が静かに発車した。冬に向かう季節の中で、新
しい旅が何を私にもたらしてくれるのか、期待と不安で胸をいっぱいに
しながら、残照が落ちて血のように染まった海、静かだが一時も休息す
ることのない海を見ていた。運命の手がいつも私を携えて行ったが、不
定の未来に私を導き入れたのは、詩人であることの内的要請であった。
こうして私に書き継がせているのもまたそれなのである。


 翌朝、列車がマドリードに着くと、リュックを受け取るため、ペンシ
ョン、サン・ミカエルに駆け込んだ。右目が義眼の女主人が以前と同じ
ような笑顔を浮かべて私を迎えた。アンダルシア、モロッコを旅してい
た一ヶ月にも満たない期間であったが、懐かしく感じられた。私のリュ
ックは食堂の暗がりで口を紐で結わえられ、預けた時と同じ位置にあっ
た。すっかり慣れ親しんだマドリードの街。都会に特有の喧騒と群集に
紛れ込む爽快感を全身で受け留めた。サン・アントニオ通りを歩いて、
いつしかグラン・ビアと名を替えている、大河のように広がる通りに面
して大きな書店があった。通りに向けたガラスの棚に置かれた分厚い画
集を飾っているミケランジェロの絵が、私の視線に飛び込んで来た。シ
スティナ礼拝堂の天井に描かれた有名な絵、神の指がアダムの指に触れ
ようとする瞬間を捉えた絵である。マドリードにプラドがあるようにパ
リにはルーブル美術館がある。しばらく絵を見ていなかったことに気づ
いた。ヨーロッパの中心に一刻も早く身を置き、芸術家の天分に触れ、
創造というものが持つ精神の流動に巻き込まれたい。明日はこの街を去
り次の寄留地と決めていたパリに赴き、そこで冬を越すだろう。春にな
れば旅を再開する。イタリア、ギリシアに遊びトルコから陸路でインド
まで辿る、気の遠くなるような旅の時空が横たわっている。だがほんと
うに可能なのか。触れたことのない国の文化に寄せる想い、その渦中に
身を置き、何を考え何を感覚でつかむことになるのか知りたい、という
想いだけが私を前方へ突き進めていた。


 脳髄を鉄の車輪が轢いて行く、雷鳴のような轟音を鳴り響かせて。マ
ドリード発パリ行きの列車が記憶の闇から闇を走っている、一つの旅の
終わりからもう一つの旅の始まりに向けて。こうして私がペンを走らせ
ているのも記述という旅の始まりである、歌うことによって死者を甦ら
せるオルフェのように、言葉に綴ることによって息を吹きかけられた事
物が、私という身体が欲した旅の経験にどのような意味をもたらすのか
は誰にも分からない。なぜ書くのかという命題が誰にも知り得ないほど
に。だが、記述する経験を終える私は、確実に変わることができると信
じられた。私は書き続けなければならない、旅の意味を解読することが
私の未来を切り拓いてくれることであるという限りにおいて。


 列車のコンパートメントに独り私はいる。どのコンパートメントにも
乗客の姿が見当たらない。今日は十一月十二日。七月二十九日に出国し
たので持って来た服装は、ほとんどが夏物であったが、青いセーターを
一枚入れていたことに気がついた。パリはずいぶんと北に位置する。寒
さが厳しいのではないだろうか。そんなことを思いめぐらしていると、
レールを転がす扉の音がした。そこに異様に背の高い青年が現われ、頭
を下げくぐり抜けるように入り私のいる座席の向かいの座席を占領した。
私と同じような身なり、ジーンズとくたびれたシャツを纏っている。私
たちは挨拶をしてすぐに口を閉ざした。細い黒のフレームの眼鏡をかけ
ている彼は、レンズを通して、時々私の方に視線を向けて、リュックを
開き、衣類、本などを一つ一つ取り出し確認している。視線をこちらに
向ける彼の青い瞳がどことなくうつろに見える。夏が終わって出会う若
い旅行者には寂しげな様子がつきまとってしまうものだ。私もそうした
一人に違いない。私はスペイン、ポルトガル、そしてモロッコで過ごし
た日々を回想したかったので話しかけずにいた。そんな私を察知してか、
青年は荷物をしまい込むと、リュックを肩にかけ無言で出て行った。別
のコンパートメントに行ったのだろうか。私と話をしたかったのかもし
れない。コペンハーゲンの青空市場で買った薄手の古着のジャンパーを
取り出して着た。思いついて、マラケシュで値切り手に入れたジェラバ
をリュックの底から出し頭から被った。立ち上がって車窓の闇に映る自
分のきつい眼差しを見た。フードで切られた視界から、扉の硝子越しに
見える通路に視線を投げた。ちょうど紺色の制服を着た中年の駅員が通
り過ぎるところであった。私の視線に遭い、ちょっと怪訝そうな眼つき
で私を見た。一瞬立ち止まったが、私に声をかけることもなく、そのま
ま立ち去った。仕立てられた一枚の布。それだけでイスラムの国の青年
になりきれる自分がおかしかった。モロッコで出逢った男たちには、彼
らの鋭い視線から、時間の概念を超えた物静かな旅人の様相が読み取れ
た。この世こそは旅であり、さらにこの世は仮の住まいという、日本人
の無常観とどこかで通底しているものさえ感じた。スペインでもポルト
ガルでもイスラムの影が感じられはしたがキリスト教文化と混血した独
自のものであり、過去の遺産として今も存在しているところがモロッコ
との違いである。グラナダでは滅びを寸前にしたモーロ人の、イスラム
と渾然となったこの世への想いの深さがアルハンブラの庭に具現したの
ではないか。そこで私が過した時間との絆は生涯断たれることはないだ
ろう、と思った。私の旅は、要約すれば「私」の探求なのである。美に
喚起することは己に目覚めること、もう一人の自分に出逢うことなのだ。
自分を見つめるもう一人の自分がいて、静かに流れる水の音を聴きなが
ら、大理石の列柱が林立する閉ざされた庭で想いを廻らした時間。それ
は私のうちでいく度となく反芻されるに違いない。見上げれば甍の向こ
うの、抜けるような空の青さが、吸い取られそうな私の心の鏡面を照ら
した。


 車窓には、夜の闇を隔てて私の身体が映し出されていた。列車はパリ
と私の距離を狭めるために全速力で走っている。北欧を南下して来たの
だが、パリを避けてさらに南下したのは、旅する私を全否定するような
予感があったからだ。今は迷わずパリという都会に向かっている。これ
までの旅に決着をつけるために行くのだ。この街に着いたら、真っ直ぐ
に中央郵便局に行き、両親と友人からの手紙を受け取る。旅先から手紙
で伝えておいたからきっと届いているだろう。旅には、訪れる順序とい
うものがあるのではないか。なぜなら、旅においても人は成長するから
だ。国境を越えて隣国に入ると、その相違に驚いてしまうが、ほんとう
はそれほど突然ではないのだ。旅をする人の心も同様である。その時々
に考え、必然の意図を手繰り寄せていく時、道は拓けるだろう。計画通
りに進行しなくてもよい。その時々考えればおのずと道は拓けるだろう。
何もかもが新しい体験である。私の前に立ちはだかるのは混沌とした何
ものかであり、生きる時間の流れの中で明晰にしていけばよい。この作
業は忍耐を必要とする。創造行為に携わるすべての人々が耐えようとし
た。明晰化することは言葉を発見することである。それを怠ってはなら
ない。パリをこよなく愛し、憎悪したシャルル・ボードレール。私に詩
を書くことを決意させたアルチュール・ランボー。数え切れないほどの
芸術家を呼び止めたパリが、伸ばせば手の届きそうなところにある。初
めて会うパリは、異邦人の私をどのように迎えるだろうか。

 
 列車がガタンという音を立ててカーブした。よろけた私はジェラバの
裾に足を取られ座席に転げ落ちた。心臓が早鐘のように鳴り始める。ア
ディオス、エスパニョール。かつて耳にしたスペイン語の乾いた響きが
脳裏でざわめき出した。旅の途中で出逢ったいくつもの顔が眼前に浮上
して、おかしくなり独りで笑った。心はフランス国境を通過したばかり
の列車を離れ、パリに飛び立ち始めた。眠りについて小刻みに揺れてい
る私の身体を置き去りにして。


 (第一回終了)
 


copyright2015以心社


若き日のパリ滞在記 小林稔詩集『蛇行するセーヌ』から掲載

2015年12月19日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

Rue Herran 75016
          小林 稔 



 ホテルの隣にあるカフェに入る。昨日、窓際に席を占めた私を見つけ
目配せして機嫌よく注文しに来た若い給仕が、今日はいつになってもや
って来ない。昨日、チップをあげなかったことに原因があるのかもしれ
ないと思った。そのまま店を出て、サン・ミシェル通りをセーヌ川の方
に向かって歩いて行くと、日本人の経営する小さな旅行代理店があった。
格安の航空券の広告が貼られている掲示板に、アパートの物件があるこ
とに気づいた。パリ十六区、家具付きの屋根裏部屋、六百フラン、マダ
ムD。日本人の名前が書かれてあった。住所と電話番号を手帳に控えて
店を出た。通りを北上し、パンテオンのある通りへ折れたところにある
文房具屋に入った。日本から持参した日記帳が終わってしまったので、
ノートが欲しかったのだ。棚に置かれたノートの表紙をめくったが、ど
れも方眼紙のような升目が引かれている。次々に手にとって探したが、
そのことが店の女主人を怒らせてしまったようだ。眼鏡の奥の眼球が光
って犬を追い立てるように何かを叫んで、手で追い払うジェスチャーを
する。私は諦めて近くのカフェに入った。店の奥に電話ボックスが並ん
でいたので、手まえのカウンターでジュトンと呼ばれているコインを買
い、先ほど見つけたアパートに電話をしたが留守であった。外に出てリ
ュクサンブール公園を散策した。ボードレールの胸像があった。しばら
くして再びカフェに入り電話ボックスに直進した。カウンターを通り過
ぎた時、老いた女(おそらく経営者であろう)が、私に向かって喚き立
てている。私が何かの間違いを犯したとしたって、そんなふうに目くじ
らを立てることもないだろうに。私はそんな状況を無視して電話をする
と、マダム・Dと繋がり、すぐに行くことを約束してカフェを逃げるよ
うに立ち去ったが、何がいけなかったのか未だに解らない。二度目に入
った時、ジュトンを買わなかったことがいけなかったのだろうか。その
憎しみが現在まで鎮まらないから不思議である。一杯のコーヒーに税金
とサービス料がかかる、それでもチップを要求し、お釣りの小銭を返さ
ないこともあった。フランス人は好きになれそうにない。運動靴の紐が
切れそうだ。これからの滞在中の食費が気にかかる。自炊ができれば安
くあげられるかもしれない。生活がしにくいのは経済のことであってパ
リの本質とは関係がない。パリの人々とも関係がないといえようか。だ
が物価が高いのはフランスの貧しさではないだろうか。精神の貧困と何
かしら連結しているのか。


  こうして人々は生きるためにこの都会に集まって来るのだが、僕には
 それがここで死ぬためのように考えられる。僕は外出して来た。そして
 いくつもの病院を見た。一人の男がよろめいて倒れるのを見た。
             リルケ『マルテの手記』望月市恵訳


 産院に向かう妊婦の後を追いかけ、街路の悪臭を吸っている乳母車の
子供を見つめ、窓から侵入する車の騒音と、街の群集の流れと市外電車
の移動が娘の叫び声を消してしまうのを目撃する。見えるものに恐怖を
感じながらもマルテは見ることをやめはしない。彼は言うだろう、「 僕
は見る目ができかけている」と。物の深部にまで降りて行く自分を強く
自覚し、それが詩人の使命であると言うだろう。ほんとうの詩人になる
ための受難をパリで実践しようとしている。詩は「感情」ではなく「経
験」である。思い出を持ったら「 忘れ去らねばならない」。そして「再
び思い出がよみがえるまで気長に静かに待つ」忍耐が必要であり「恵ま
れたまれな瞬間に、一行の詩の最初の言葉が思い出のなかに燦然と現わ
れる」と書く。科学文明の急速な進展と経済成長のもとで歪曲された人
間の精神に思いを馳せる。何千年という人間の営みが個をないがしろに
し、集合として個を概念化して来たことに異議申し立てをする。詩は一
人の人間の経験を通して証される普遍の真理であると主張するのだ。    
  
  
  僕のカラーは清潔で、肌着もよごれてはいない(中略)僕の手はすく
 なくとも良家の子弟らしい手であって、毎日四回か五回かは洗っている
 手である(中略)しかし、たとえばサン・ミッシェル通りやラシーヌ街  
 には僕の手にだまされなくて、清潔なふしぶしをせせら笑う人種がいる。
 かれらは僕を一目見て、すべてを感づいてしまう。僕はほんとうはかれ
 らの同類であって、すこし芝居をしているのだということを(中略)そ
 して、なによりも不思議なことは、僕がその合図の意味するある秘密の
 申し合わせにおぼえがあって、その場面は僕が予期しなければならなか
 った場面であるような気持ちをたえず禁じられなかったことである。                                     前掲書『マルテの手記』

 
 人生の舞台から奈落へ落ちた敗残者たちにマルテ(リルケ)は出会う
が、彼の心の奥底を覗き込む彼らに恐怖を感じつつ、同類意識を棄て切
れないのは、彼が詩人であるからであり、また彼らと相違するものとは
何かを知るのは詩人であるという自覚である。詩と聖性は深く結ばれて
いるターム(term)である。人間であることの最低条件とは何であろう
か。労働であろうか。だが、詩人であるとは何を意味するのだろうか。
パリという街の持つ独自の風土が人々を引き寄せ、歴史を堆積した。生
きているとは生きている実感を持つことであるならば、それを容易にさ
せない場所でこそ可能なのだ。生は死といつも隣り合わせだ。昔も今も
人々がこの街の厳しさに底知れぬ魅力を感じているではないか。人を孤
独に直面させる街なのだ。だからここで脱落したら救いはない。マルテ
が恐怖を覚えたのは、詩人がほんとうの詩を獲得しなければ、あの敗残
者と同じなのだということである。マルテはそういう境遇に進んで身を
置いたのである。貧困と孤独。職を持たず身を投じていること。詩人と
は彼らの視線の位置まで身を落とさなければならない存在に違いない。
マルテ(リルケ)が見ることから学んでいこうとしたように、私もパリ
を見ることから始めよう。これまでの旅よりも厳しいものを感じる。旅
行者はパリの人々の合理主義を冷たさと思い、パリを罵倒するが、私が
旅の途上で思考してきた事柄を追究していく過程にこの厳しさは相応し
いものだ。耐えなければならない。それだけのものを私はパリから甘受
するだろう。構築的精神を生んだ理由が、街の外観からも読み取ること
ができそうだ。孤独が深まる程に、それだけこの街の美しさが煌いて見
えてくる。私の美の感覚がどれほどのものであるか試される時である。


 地下鉄のポンプという駅で降り地上に出た。高い塀で囲まれた建物に
沿いながらロンシャンという名の通りをさらに折れると、エランという
狭い通りに辿り着いた。番地を確かめ、木製の丈高い扉のまえに立った。
後ずさりして仰ぐと、最上階に屋根裏部屋の突き出した箱型の窓がある。
その上にいくつもの煙突が立っている。左手の呼び鈴を押した。ロック
がひとりでに外れ扉が開き、その奥の闇が垣間見えた。重厚な扉を押し
て中に入ると、右手に深紅の絨毯を真鍮の金具で留めた大きな階段があ
った。階段の左に鉄の檻に納められたエレベーターがあり、さらに左手
は中庭に続いている。途中、管理人の部屋の窓が見えた。昔は馬車がこ
の扉から入り中庭に繋げたのではないだろうか。

 マダム・Dの住居は二階にある。私は階段を昇って行き、部屋の扉に
あった呼び鈴を押すと、しばらくして日本人女性が姿を見せた。三十代
後半にはなろうか、落ち着きのある物腰で私をリビングに招いた。ベト
ナム人男性と結婚して、彼女は学校の事務の仕事をしていると私に語っ
た。いくつかの部屋の扉が並んでいる通路を抜けて裏口から出ると、狭
い螺旋階段があり、彼女の後について昇って行った。この建物の最上階
まで辿ると、それぞれの階に付属した屋根裏部屋が並んでいる。昔は各
階の女中が住んでいたという。扉の鍵を開けてマダム・Dは私に部屋を
見せるため中に入った。広い台所がすぐ見えるところにあった。窓がエ
ラン通りと反対側についているため、硝子越しに屋根が見えるだけであ
った。台所の奥に六畳程度の広さの部屋があった。マントルピースがあ
ったが、使わないように彼女から言われた。この部屋の小さな窓は通り
に面している。先ほど下から見上げ時に見えた窓に違いない。簡易ベッ
ドと机と椅子がある。ここに日本人が住んでいるが、二日後に日本に帰
るため次の借主を捜しているのだ、とマダム・Dは言った。私は借りる
ことに決めて内金を払い、螺旋階段をいっしょに降りて二階の裏口で彼
女と別れ、中庭に出て通路を抜け外に出たのであった。


 青春時の、絶えず何ものかに追い立てられているような感情。死が隣
り合わせていることにも無知で、失望と陶酔が交互に訪れ、眼差しは遠
くへ引き寄せられた。すれ違いに見た人や自然や街々の佇まいに感動し、
心痛め、怒り、不安に脅え、はたまた夢に胸を躍らせた旅の途上での想
いが忘却の淵から浮上して私の血潮を湧き立たせる。旅立たなければな
らなかったほんとうの理由を問いただしても、記憶の抽斗はどれも空で
足がすくんで身動きできなくなる。宿題を忘れて教室に立たされた小学
生のように、真っ白になった脳髄を、哀しみが突然のように襲ってくる。 


 二日後に、再びマダム・Dを訪ねた私は、部屋の鍵をもらうと一人で
螺旋階段を早足で駆け上っていったが、途中で照明が消えると、壁にい
くつもついているスイッチの一つにを手を伸ばす。時間が経つとひとり
でに電気が切れる。最上階に行くまで二回ほどそれを繰り返さなければ
ならない。部屋の扉を開け台所に立つと、食器と鍋がないことに気づい
た。奥の部屋には寝具を取り払ったベッドと、机と椅子があったが、机
の上の電気スタンドがない。家具付きの部屋という約束は嘘だったのか。
マダム・Dのおとなしそうな表情の裏に、人を平然と騙す冷酷な顔があ
ったのだ。すぐに訴えに行こうと思ったが。おそらく彼女は取り乱すこ
となく言い訳をするに違いない。確認しなかった自分がいけなかったの
だし、もう一度立腹して負けを認めることも嫌だ。又貸しをして自分た
ちの家賃を浮かしているに決まっている。四ヶ月もすれば、また私は旅
を再開するのだ。


 渡り鳥が船上に翼を休めるように、寝具のないベッドが横たわる屋根
裏部屋で、リュックの紐も解かぬまま、遠くの建物にのしかかる雲の狭
間に青白く姿を見せる夜明けの空を見ていた。サクレクール寺院の白い
ドームが見える。世界が終わってしまったような静けさだ。私はここで
何をしているのだろう。パリの生活は私には無理なことだったのか。不
意にロートレアモンを昔、読んだ時の孤立した感情が甦った。この寂寞
とした部屋で私はほんとうに生きていけるのだろうか。一筋の薄紅色の
雲が、混在した建物の彼方の空に尾を曳いている。行こう。そう自分に
言い聞かせると、リュックを背負い、螺旋階段をゆっくり降りて行った。


 夜明けの冷気が頬を刺した。空は重く垂れ込めている。地下鉄の駅に
降り立ち、機械にコインを入れてキップを買い、ホームで列車を待った。
人の気配がない。やがて列車が来る。いく人かの乗客を運んで列車は素
早く停止した。私が腰を降ろした席の真向かいに座っている成熟した女
の、私を観察しているような視線があった。私が視線を向けると、女は
床に視線を落としたが、頬笑んでいるのは明らかだ。通勤客が乗り込ん
で来て遮断され、女の視線から解放されたので、さっきまでアパートの
床にうずくまっていた自分を思い起していると、いとおしみの感情が沸
き立った。「引き返せ」。そういう声が胸の奥から聞こえてきた。ちょ
うどその時、駅に列車は止まって、反対側のホームに別の列車が滑り込ん
だ。そして反射的に私は飛び乗ったのである。


 シテ島に架かるいくつもの橋を見ながら、その一つ、サン・ミシェル
橋を私は渡っていた。百貨店で買った寝袋を胸に押し当て、喜びと哀し
みで泣きそうになった。抑えようとする気持ちがいっそう感情の波を揺
さぶり続ける。立ち止まり冷気を大きく吸い込んだ。夕闇はすでに降り
て、欄干から視線を投げると、対岸の建物が黒い輪郭を映し出している。
このユーラシアの東に、私の辿るべきアジアの大地が横たわっているの
だ。どんな困難が待ち構えているか。私は生きて日本に帰ることができ
るのだろうか。
 
 パリよ、若い日の愚行と、不幸と背中合わせの希望に胸を燃やしてい
た私を、あなたは静かに見ていた。あの時の心の震えが、昨日のことの
ように何度も甦って、私は今も胸の痛みを覚えるのだ。

copyright2015以心社 無断転載禁じます。


「コンコルド広場」小林稔詩集『蛇行するセーヌ』より掲載

2015年12月16日 | 小林稔第6詩集『蛇行するセーヌ』

小林稔第六詩集『蛇行するセーヌ』2003年(旧天使舎)以心社刊より

コンコルド広場
小林稔


セーヌの岸に沿って歩いて行くと、グランパレ、プチパレの円蓋が見え、さらに先にエッフェル塔の遠景がある。

                    私たちが引き寄せられるように向かうのはコンコルド広場だ。マリーアン

トワネットが処刑された地点にオベリスクが立っている。荒れ狂う海原に屹立し渡った、アレク

サンドリアから航海した記憶を夕陽の射したその切尖に留めて。

      この街の地下墓地の十字路には夥しい数の死者が葬られて、その間隙に、ミシェランの性能の良いタイヤ

が地下鉄の線路を、猛スピードで回転し続けている。

   
           突如、ショパンの楽曲が、今はマーラーの『シンフォニー四番』ではなくベートーベンの『皇

帝』でもない、私たちの脳裡を疾走したのはショパンの『バラード一番 』。

      青春の矜持は咲き乱れる紅い薔薇、終息することのない夢は海に注ぎ込む銀色の大河のように。

                    めくるめく音階を滑り降りて駆け上がり、息をついて再び駆け上がる高み

で、意を決して一段一段と降り、加速させ転がり落ちて行く。この街と私たちが別れる時は近づいている。

           
                生涯に再びこの地に立つことがあるだろうか。


 離れる私たちの後ろでオベリスクは一瞬、傾いたように見えた。

夏の微風に包まれ、夕暮れの空に聳え立つ金字塔、オベリスクよ、かつて無名の詩人がこの街で、ある時は哀しみに心

を裂き、ある時は夢に燃えた青春のあったことを永遠に記憶せよ。

                               私たちの視線の先、シャンゼリゼ通りの真ん中に

凱旋門が悠然と立つ。街灯が光を放ち、闇をいっそう深くしていた。



copyright 2003 以心社
無断転載禁じます。