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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

古市古墳群をあるく(藤井寺市編)⑨ ~唐櫃山古墳・衣縫塚古墳~

2016-05-09 00:03:24 | 史跡を歩く
 近鉄土師ノ里駅の前を東西に走る府道堺大和高田線を越えると工事中のフェンスが建っている。フェンスには「百舌鳥・古市古墳群を世界遺産に!」というスローガンが書かれている。現在、堺市、藤井寺市、羽曳野市を中心に「百舌鳥古墳群」と「古市古墳群」を世界遺産に登録しようという動きがある。正直、両古墳群を構成している古墳のかなりの部分が破壊、消滅している中で遅きに失するという気持ちもあるが、それでも今かろうじて残っている古墳を保護していくためにはこうした仕掛けも必要なことであると思う。

 さて、このフェンス越しに中をのぞいてみると、敷地内に家型石棺がむき出しになっている様子が見える。

 

 はて、これはと思って調べてみると、これが、唐櫃山古墳(「からとやま」と読みます)で、後円部の半分を府道と近鉄線に破壊されているが、残りの部分が現在、国の史跡に指定されている。以前は個人宅の庭であったものが、現在、更地になっていて、これを藤井寺市が整備しているようである。(何の説明板もないのだが・・・・)
 唐櫃山古墳については、近くにある市野山古墳(允恭天皇陵)の陪冢と考えられている古墳であり、かなりの部分が破壊されていて、外観だけでは、形状はわからないが、どうやら前方後円墳(帆立貝形古墳と書いてある本もある。)であったようだ。市野山古墳と同様に5世紀の後半の築造と考えられ、墳丘長は、57m、後円部径38m、前方部幅21メートルで、周濠を持っていたと考えられている。

 

 後円部で、刳抜型の家型石棺が見つかっているとのことなので、前述の石棺がそうなのであろう。石棺の形については、以前ブログでも取り上げたことのある長持山古墳の石棺と酷似していると言われている。おそらく、ともに市野山古墳の被葬者と非常に密接な関係のある人物が埋葬されていたのではないかと考えられている。
 ようようみると石棺がある後円部の方が少し高くなっている。

 

 以前、道明寺小学校の前に展示されていた長持山古墳の石棺も移設作業中で見れないことを考えるとどうやらここに古墳公園か何かを作る計画があるのかもしれない。いつできるのか不明ではあるが、完成を楽しみに待ちたい。

 唐櫃山古墳から、旧外環状線に出て、道路の向かい側のスーパーマーケットの裏に、允恭天皇陵(市野山古墳)の陪冢に治定されている八王子塚がある。

 

 建物の隙間にあり、ほとんどがれきの山みたいな土地が八王子塚なのだが、どう見ても古墳には見えない。これを陪冢と見立てたのはなぜだろう?周辺には陪冢と思われる古墳が、当時であればもっと多くあっただろうに・・・。不思議である。

 

 八王子塚から、再び旧外環状線にでると、市野山古墳の拝所の前を通って、少し東へ行くと、最近に開発されたであろう住宅地の中に、衣縫塚古墳がある。古墳の三方向については、住宅がすぐそばまで迫っており、古墳の西側のみ児童公園があり、そこから観察ができる。

 

 衣縫塚古墳は、允恭天皇陵の陪冢として宮内庁が管理しているので、立ち入りはできないようになっている。この古墳については、大きさは直径20m、高さ4.8mの円墳であり、周囲には堀があったらしい。また、周辺の発掘調査から、築造は市野山古墳と同様に5世紀の後半と考えられている。

 

 衣縫塚の由来は、説明板によると衣縫の造の孝行息女伝説からつけられたらしい。

 

 ここから、再度西名阪自動車道の方へ向かって、まだ見ていない松川塚古墳等を見学することにしよう。

 ※市野山古墳等については、「古市古墳群を歩く(藤井寺市編)⑧ ~市野山古墳・宮の南塚古墳・長持山古墳石棺~」を参照

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