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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

天王寺界隈を歩く③ ~口縄坂と源聖寺坂~

2016-05-06 00:39:05 | 文学をたどる
 家隆塚からしばらく北へ歩くと、「夫婦善哉」で知られる織田作之助の文学碑がある。引用されているのは、織田作之助の「木の都」の一節である。せっかくなので原文を引用してみる。

 「口繩坂は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。」

 

 「木の都」の最後の文章が引用されている。「木の都」は、織田作之助が高津中学校に通って、夕陽丘高等女学校に通った思い出がモチーフになっており、口縄坂をはじめ、大阪の天王寺七坂や生國魂神社などが舞台になっている。昭和19年というから戦争中に発表された小説である。織田作之助は、大正2年に大阪に生まれている。大正2年生まれと言うと、著名な人物では、俳優の森繁久彌氏や歴史家では家永三郎や奈良本辰也といった人たちである。高津中学から三高に進みも中退し、夫婦善哉などの大阪を舞台とした小説で知られている。戦後は、太宰治や坂口安吾などの作家とともに無頼派と呼ばれ、昭和22年、33歳で亡くなっている。大阪では、織田作という愛称で呼ばれており、大坂の文学者と言えば、一番最初に出てくるのが、織田作之助である。(と言えば言い過ぎか。)

 「木の都」には口縄坂の由来も語られている。
 再度引用してみよう。

 「口繩(くちなは)とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といつてしまへば打ちこはしになるところを、くちなは坂とよんだところに情調もをかし味もうかがはれ、この名のゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだ・・・。」
 
 

 そんな言うほどうねうねしていないような気がするけど。確かに台地の上までの距離が細長いけど。あっ、そうか横に見るんじゃなくて縦に這っているようにように見えるのか。
 坂の途中には、大阪府立高等女学校発祥の地の石碑がある。

 

 この地にあったときの様子も、「木の都」には出てくる。
 再三にわたるが引用してみよう。

 「ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇たたずんでゐた私の顔が、坂を上つて来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたやうにぱつと赧あかくなつたことも、今はなつかしい想ひ出である。」

 僕が訪れた時は、ちょうど桜が満開の時期で、多くの人が坂の両側に咲く桜の花と口縄坂の写真を撮るために訪れていた。大阪の街中でも、桜の並木があるんだなあと改めて感心した。
 
 

 口縄坂の北にある坂が源聖寺坂である。

 

 源聖寺坂の由来は、登り口にある源聖寺に由来する。どっちかというと源聖寺坂の方が口縄坂と比較すると、横にうねうねしているように見える。この坂も隣接しているお寺の桜を鑑賞しながら歩くことができる。

 

 坂を登っていくと途中に建売住宅なんかもあったりして、商業空間ではなく生活の空間の色合いが濃い気がする。

 

 天王寺七坂と言えば、北から真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂なのだが、これまで源聖寺坂、口縄坂、愛染坂の3つしか制覇していない。できれば桜の季節に残りも制覇してみたいと思う。
 ここは、大阪でも、ちょっと昔の大阪の香りのする場所である。この雰囲気を失わないようにしてほしいと思う。

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