堂山2号墳~7号墳がある丘陵から西へ伸びる尾根の先端に堂山1号墳がある。
尾根を少し下っていくと、古墳の上部が見える。一見、この部分だけが、古墳のように見えるのだが、実際はこの高まりよりも下に伸びている。
堂山1号墳の墳丘については、この丘陵の先端の地形を生かして、墳丘を形造っている。あまり見たことないのだが、この丘を造っている花崗岩を削って墳丘を築いており、盛り土はあまりおこなわれていないようだ。また、墳丘の周りを円筒埴輪が巡らされていたが、葺石の存在は確認されていない。
また、調査の結果から、堂山1号墳については、直径25mほどの円墳であることが判明している。
古墳の埋葬施設については、木棺直葬であり、主体部とは別に、副葬品だけを埋納した副棺の存在も確認されている。墳丘の上に登っても、埋葬施設を示すものは、残念ながら何もなかった。
そして、副葬品としては、勾玉や管玉、紡錘車、短甲や冑が出土している。そして、その短甲や冑が、三角板革綴で製作されていることから、5世紀の前半の築造と考えられている。
堂山1号墳の墳丘からは、大阪平野が広く見渡すことができ、非常に見晴らしがいい。この古墳が築かれたときは、おそらく眼下に深野池が広がっていたのだろうし、この丘陵と池の間には、東高野街道が通じていたと考えられる。
堂山1号墳の周囲には、円筒埴輪がぐるっと並べられていたのだが、西側の方がきちんと並べられていたらしい。つまり、この古墳の下を通る東高野街道から古墳の姿が少しでも立派なものに見せるためのものだったのだろう。ちなみに、東高野街道沿いには、市町村をまたがって、いくつかの古墳が存在している。このようなことを踏まえると東高野街道は、古墳時代には存在していたのかもしれない。
最後に、古墳からは、鉄剣や短甲、冑などの武具も出土していることから、この深野池を中心とした周辺一帯を管理していた武人が被葬者として考えられそうである。
そして、初めに紹介した堂山2~7号墳は、堂山1号墳に埋葬された人物の何世代か後の子孫と考えられそうな気がする。かつて、先祖は、この地域を支配していたのだというような意識のもとに近くに古墳を築いたのではないだろうか。
最後に、堂山古墳群のある丘陵から降りて、大東市の歴史民俗資料館の方へ向かう。資料館のそばに、宮谷1号墳と呼ばれる古墳の石室が、移築保存されている。古墳自体は、直径20mの円墳であったらしい。
6世紀の後半に築かれた古墳で、もともとは北条という場所で見つかったのをこの場所に移してきたものである。埋葬施設は、片袖式の横穴式石室で、玄室と羨道に分かれている。
そして、面白いことに、この古墳は、石室などから須恵器が出土しており、6世紀の後半の築造と考えられるのだが、6世紀の前半のものと思われる岩見型盾型埴輪も見つかっていることから、同じ場所に宮谷1号墳に先行する古墳があったとも考えられている。
ただ、古墳のある場所が、コインパーキングの前なので、これが古墳だということにあまり気づく人もなさそうである。
この後は、大東市の歴史民俗資料館を見て、今日のところは終了です。
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