上居の立石から冬野川を渡って、坂田と呼ばれる集落へ入る。周りは一面田園風景なのだが、その中でポツンと丸いような四角いような塚が一つある。これが都塚古墳である。
都塚古墳については、以前も、このブログで取り上げたことがあるのだが、その後、発掘調査によって新たな発見等があり、改めて行ってみることにした。(「都塚古墳とマラ石」参照)
訪問すると、まず解説板が新しくなっていた。平成26(2014)年に実施された発掘調査で得られた知見をもとに作製されている。平成26年の発掘調査について、かなり新聞などでも報道されていた記憶がある。この時の調査は、都塚古墳の墳丘の規模と形態を確認することを目的として行われた。
調査の結果、都塚古墳の大きさが、一辺41~42mの方墳であることが確認された。これまでは、一辺28mほどの方墳と考えられていたことから、かなり大きさが変わってきている。一辺40mというと、岩屋山古墳や赤坂天王山古墳が同規模と考えられる。方墳としては、全国8位に一気に名乗りを上げることになった。
また、墳丘は階段状になっており、少なくとも6段以上の段数があったと考えられている。解説板にも復元のイメージ図が載っている。
古墳のテラス面や側面が石でおおわれていたと想定されることから、築造時は、さながら石のピラミッドのように見えただろうなと思われる。
都塚古墳の石室の中は柵ごしに眺めることしかできないのだが、柵ごしに見ても、その石室の素晴らしさは実感できる。石室の長さは、12.2m。玄室の長さは、5.3m、幅は、2.8m、高さは、3.55m、羨道の長さは、6.9m、幅は、2m、高さは約2mと計測されている。なお、羨道の天井石はすでに失われている。
玄室の石組は、側壁、奥壁とも3段組みとなっており、羨道については、2段組みの両袖式の横穴式石室になっている。
石室の中には、くりぬき式家型石棺が一つ現存しており、石棺の蓋の縄掛け突起がなかなか立派である。
古墳の築造は、6世紀の後半と考えられることから、石舞台古墳に先行するものと考えられそうである。
この辺りは、古墳のように見える高まりがある場所がいくつかある。今後の新しい発見があるかもしれない。
都塚古墳については、以前も、このブログで取り上げたことがあるのだが、その後、発掘調査によって新たな発見等があり、改めて行ってみることにした。(「都塚古墳とマラ石」参照)
訪問すると、まず解説板が新しくなっていた。平成26(2014)年に実施された発掘調査で得られた知見をもとに作製されている。平成26年の発掘調査について、かなり新聞などでも報道されていた記憶がある。この時の調査は、都塚古墳の墳丘の規模と形態を確認することを目的として行われた。
調査の結果、都塚古墳の大きさが、一辺41~42mの方墳であることが確認された。これまでは、一辺28mほどの方墳と考えられていたことから、かなり大きさが変わってきている。一辺40mというと、岩屋山古墳や赤坂天王山古墳が同規模と考えられる。方墳としては、全国8位に一気に名乗りを上げることになった。
また、墳丘は階段状になっており、少なくとも6段以上の段数があったと考えられている。解説板にも復元のイメージ図が載っている。
古墳のテラス面や側面が石でおおわれていたと想定されることから、築造時は、さながら石のピラミッドのように見えただろうなと思われる。
都塚古墳の石室の中は柵ごしに眺めることしかできないのだが、柵ごしに見ても、その石室の素晴らしさは実感できる。石室の長さは、12.2m。玄室の長さは、5.3m、幅は、2.8m、高さは、3.55m、羨道の長さは、6.9m、幅は、2m、高さは約2mと計測されている。なお、羨道の天井石はすでに失われている。
玄室の石組は、側壁、奥壁とも3段組みとなっており、羨道については、2段組みの両袖式の横穴式石室になっている。
石室の中には、くりぬき式家型石棺が一つ現存しており、石棺の蓋の縄掛け突起がなかなか立派である。
古墳の築造は、6世紀の後半と考えられることから、石舞台古墳に先行するものと考えられそうである。
この辺りは、古墳のように見える高まりがある場所がいくつかある。今後の新しい発見があるかもしれない。
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