さあさあ今回は毒を吐くぞ。
覚悟のある奴だけついてこい。
前回は新年の挨拶だったから口調も丁寧で内容も抑えて書いたが、読み返してみると妙に大人ぶって日和見だ。
骨抜きにされちまったたのか?
お前の心の叫びはどこへ行った?
というような声が上の方から聞こえてきた。
なので心機一転、思うことを書きたい。
そもそもこのブログだって、自分を表現する手段として始めたのだ。
それがいつのまにか読者も増え、「ブログ楽しみにしてま〜す」なんて言葉を貰って舞い上がって。
人の顔色を伺うような、当たり障りの無い言葉を書き連ねてるだけじゃねーか。
全然ロックじゃねえ。
清志郎が草葉の陰で笑ってるぜ。
あーいやだいやだ、年は取りたくねーなあ。
そんなわけで、今回は辛口で攻めるつもりなので、僕ではなく俺で行こう。
俺は人を見るときに、その人が『何を言っているのか』ではなく、『何をやっているのか』で人を見る。
「あー、自給自足の生活っていいですよね。憧れますよ」
でもその人の庭を見れば、その人の想いまでも見えてしまう。
チョコチョコっと耕して、思いつきで買ってきた苗を植えて、それで自分は仕事をやった気になっている。
ふざけんじゃねえ、家庭菜園を甘く見るな!
野菜作りというのは点の仕事じゃない。線の仕事だ。
毎日の水やり、雑草抜き、虫取り、肥料などの散布、場合によっては剪定、そして収穫という一連の流れなのだ。
植えてそれでお終いではない。
そして多くの人が言う言い訳。
時間がないからできない、金がないからできない。
そういう人は金があっても時間があってもやらない。
ただ誰もが野菜を育てられるかと言えばそうでもない。
人には向き不向きがある。
こういうことは心の奥から出てくるものであって、強制されてやるものではない。
それならそれでその人は無理に野菜を作らなくてもいいじゃないか。
その分のエネルギーを別の場所で世のため人のために使えばいいと思う。
野菜を作らなくても、他人を幸せにしている人を俺はたくさん知っている。
そういう人たちは下手な言い訳をしない。
言うこととやってることが違う人というのはどこの世界にもいるものだ。
その極め付けがこれだ。
「金が一番大切じゃない」
だいたいそれを口にする奴ほど金には意地汚いということを、半世紀の人生で学んだ。
金は問題じゃないと言いつつ、金を使うのは自分にだけで人の事を全く考えないエゴの塊りみたいな奴はどこの世界にもいる。
俺の周りにも以前は居たが、嬉しいことに最近ではそういう人との縁もない。
きっと波が違って会わなくなったんだろう。
金は大切だ。
野菜がどれだけあろうと金がなかったら日々の暮らしに困ってしまう。
だがこれも程度の問題であり、どれだけ金を持っていようが「金が無い」と言う人はその言葉を言い続けるだろう。
昔の俺がそうだった。
高校時代はバイトをやりまくって、それなりのお金を持っていたが、「金がねえ」が口癖だった。
金があれば何でもできると思っていた。
まあ金があれば何でもできるのは事実なのだが、金に踊らされていた頃も若い時にはあったということだ。
先日、うちの頑固爺が日本から電話をかけてきた。
爺曰く「今は俺が自分の事を面倒見てられるけど、いよいよダメになったら身内だろうが他人だろうが介護をしてくれる人に日当を払おうと思っている。だからお前に残す金は無いからそう思え。」
僕はとても安心して、言ってやった。
「そりゃいいな、じゃあそれまで美味い物食いまくってポックリ死ね。」
「馬鹿野郎、俺だってそうしたいわ。だけど俺がこうやって自分の面倒見ながら長生きすりゃ、人に面倒をかける確率も時間と共に減っていくだろ」
確かにその通りだな。我が親ながら論理的だ。
「金の問題じゃない」という言葉は、自分が人に何かしらをしてもらう時に使うものではない。
自分が人にしてあげる時にこそ使う言葉だと思う。
父親の生き様から学ぶことはまだある。
話をもとに戻すが『何を言っているのか』ではなく『何をやっているのか』
その人がやっていることに焦点を当てると、直接その人に会わなくてもその人柄が見えることもある。
ある友達は米農家だが、別の友人の所でその米を食わせてもらった。
その米を食った時にあまりの旨さに感動した。そして思った。
ああ、これだけ美味い米を作るんだからあいつはいい波に乗っているんだろう。(ちなみに奴はサーファーだ)
奴が作った米には奴の心がこもっていた。
心があればこその行動がある。
後日、その米農家の友人に会ってその話をしたら、照れくさそうに笑っていたっけ。
逆にイライラするような人間関係も昔はあった。
「自分は日本でもラフティングガイドの経験はあり、こっちでもラフティングガイドとかアウトドアのガイドをやりたいんですよねー」
「じゃあカヤックで川を何回か下ってみて、自分なりのポイントなどをまとめてみたら?それぐらいの行動力があればすぐに雇ってもらえるぞ」
だがそいつは行動を起こさなかった。
そういう奴はきっと多いのだろう。
山のガイドになりたかったら山へ行け。
スキーガイドになりたかったらスキーをしろ。
アウトドアガイドになりたかったら、アウトドアの行動をしろ。
一人で行動できないヤツが人の案内なぞできるか。
何でも教えてもらえると思うな、自分の足で踏み出せ。
これは何もガイド業界の話だけでない。
全ての職種ひいては生き様にあてはまることだ。
「会社やめてやりたいことがあるんです」
「じゃあさっさと辞めてそれを始めろよ」
「でも…」
それができないもしくはやらないヤツはすぐに言い訳をする。
金がないから、時間がないから、人(家族も含め)が止めろというから。
全ては自己正当化で何てことはない、やらない言い訳なのだ。
なんもやってねえでやってらんねえはねえだろ。
やってらんねえのはなんもやってねえからだろ。
と竹原ピストルも歌っている。
そんな文句タラタラ、目が死んでいるようなヤツと付き合っていても、エネルギーを吸い取られてしまい人生の無駄だ。
それよりも俺の周りには生き生きと人生を謳歌しているヤツらばかりだ。
そういう人と会うと、お互いにエネルギーを高め合うのがよく分かる。
この前オークランドで会ったユカちゃんは、トントン拍子に事が運び郊外でカフェを始めた。
開店当初から地元の人にも大人気で上手く行ってるとのこと。
その話を聞かせてもらったが、自分達が想像していたよりも早く事が運んでしまったと。
話を聞いて感じたのが成功をしているのに傲慢では無い、どちらかというと謙虚でありながら謙虚の度合いも卑屈ではない。
良い頃合いの所にいるのだ。
良い波に乗るとはこういうことだ。
それは自分自身の芯があり、行動があればこそだ。
実際に会わなくても今やSNSで世界から友人達の活躍が見える。
おとしという友人(元はお客さん)は、会社を辞め白馬に移り住みスノーボード買取の会社を立ち上げ、さらに自分でスノーボードも作り始めた。
これなんぞは行動力のたまもので、彼らに送る言葉は常に「その調子でどんどんやりなさい」だけだ。
その人に感化されたのか美容師の友人も白馬に移り住み、楽しくやっているようである。
友人というより弟分というか家来もしくは下僕のカズヤは白馬でガイドの会社を立ち上げた。
昔からの相方JCは何もないところから、北海道に移り住み今は鹿撃ちの漁師だ。
自分で食肉加工の建物を造り、立派にやっている。
新潟でスキーパトロールのかたわら、雑貨屋をやっている友もいる。
その他、とても全てはここで書ききれないが友人達は皆それぞれの場所で、芯を持ちつつ自分のやるべき事をやっている。
とどのつまりは、やるかやらないか。
それだけだ。
みんな やってるか?
覚悟のある奴だけついてこい。
前回は新年の挨拶だったから口調も丁寧で内容も抑えて書いたが、読み返してみると妙に大人ぶって日和見だ。
骨抜きにされちまったたのか?
お前の心の叫びはどこへ行った?
というような声が上の方から聞こえてきた。
なので心機一転、思うことを書きたい。
そもそもこのブログだって、自分を表現する手段として始めたのだ。
それがいつのまにか読者も増え、「ブログ楽しみにしてま〜す」なんて言葉を貰って舞い上がって。
人の顔色を伺うような、当たり障りの無い言葉を書き連ねてるだけじゃねーか。
全然ロックじゃねえ。
清志郎が草葉の陰で笑ってるぜ。
あーいやだいやだ、年は取りたくねーなあ。
そんなわけで、今回は辛口で攻めるつもりなので、僕ではなく俺で行こう。
俺は人を見るときに、その人が『何を言っているのか』ではなく、『何をやっているのか』で人を見る。
「あー、自給自足の生活っていいですよね。憧れますよ」
でもその人の庭を見れば、その人の想いまでも見えてしまう。
チョコチョコっと耕して、思いつきで買ってきた苗を植えて、それで自分は仕事をやった気になっている。
ふざけんじゃねえ、家庭菜園を甘く見るな!
野菜作りというのは点の仕事じゃない。線の仕事だ。
毎日の水やり、雑草抜き、虫取り、肥料などの散布、場合によっては剪定、そして収穫という一連の流れなのだ。
植えてそれでお終いではない。
そして多くの人が言う言い訳。
時間がないからできない、金がないからできない。
そういう人は金があっても時間があってもやらない。
ただ誰もが野菜を育てられるかと言えばそうでもない。
人には向き不向きがある。
こういうことは心の奥から出てくるものであって、強制されてやるものではない。
それならそれでその人は無理に野菜を作らなくてもいいじゃないか。
その分のエネルギーを別の場所で世のため人のために使えばいいと思う。
野菜を作らなくても、他人を幸せにしている人を俺はたくさん知っている。
そういう人たちは下手な言い訳をしない。
言うこととやってることが違う人というのはどこの世界にもいるものだ。
その極め付けがこれだ。
「金が一番大切じゃない」
だいたいそれを口にする奴ほど金には意地汚いということを、半世紀の人生で学んだ。
金は問題じゃないと言いつつ、金を使うのは自分にだけで人の事を全く考えないエゴの塊りみたいな奴はどこの世界にもいる。
俺の周りにも以前は居たが、嬉しいことに最近ではそういう人との縁もない。
きっと波が違って会わなくなったんだろう。
金は大切だ。
野菜がどれだけあろうと金がなかったら日々の暮らしに困ってしまう。
だがこれも程度の問題であり、どれだけ金を持っていようが「金が無い」と言う人はその言葉を言い続けるだろう。
昔の俺がそうだった。
高校時代はバイトをやりまくって、それなりのお金を持っていたが、「金がねえ」が口癖だった。
金があれば何でもできると思っていた。
まあ金があれば何でもできるのは事実なのだが、金に踊らされていた頃も若い時にはあったということだ。
先日、うちの頑固爺が日本から電話をかけてきた。
爺曰く「今は俺が自分の事を面倒見てられるけど、いよいよダメになったら身内だろうが他人だろうが介護をしてくれる人に日当を払おうと思っている。だからお前に残す金は無いからそう思え。」
僕はとても安心して、言ってやった。
「そりゃいいな、じゃあそれまで美味い物食いまくってポックリ死ね。」
「馬鹿野郎、俺だってそうしたいわ。だけど俺がこうやって自分の面倒見ながら長生きすりゃ、人に面倒をかける確率も時間と共に減っていくだろ」
確かにその通りだな。我が親ながら論理的だ。
「金の問題じゃない」という言葉は、自分が人に何かしらをしてもらう時に使うものではない。
自分が人にしてあげる時にこそ使う言葉だと思う。
父親の生き様から学ぶことはまだある。
話をもとに戻すが『何を言っているのか』ではなく『何をやっているのか』
その人がやっていることに焦点を当てると、直接その人に会わなくてもその人柄が見えることもある。
ある友達は米農家だが、別の友人の所でその米を食わせてもらった。
その米を食った時にあまりの旨さに感動した。そして思った。
ああ、これだけ美味い米を作るんだからあいつはいい波に乗っているんだろう。(ちなみに奴はサーファーだ)
奴が作った米には奴の心がこもっていた。
心があればこその行動がある。
後日、その米農家の友人に会ってその話をしたら、照れくさそうに笑っていたっけ。
逆にイライラするような人間関係も昔はあった。
「自分は日本でもラフティングガイドの経験はあり、こっちでもラフティングガイドとかアウトドアのガイドをやりたいんですよねー」
「じゃあカヤックで川を何回か下ってみて、自分なりのポイントなどをまとめてみたら?それぐらいの行動力があればすぐに雇ってもらえるぞ」
だがそいつは行動を起こさなかった。
そういう奴はきっと多いのだろう。
山のガイドになりたかったら山へ行け。
スキーガイドになりたかったらスキーをしろ。
アウトドアガイドになりたかったら、アウトドアの行動をしろ。
一人で行動できないヤツが人の案内なぞできるか。
何でも教えてもらえると思うな、自分の足で踏み出せ。
これは何もガイド業界の話だけでない。
全ての職種ひいては生き様にあてはまることだ。
「会社やめてやりたいことがあるんです」
「じゃあさっさと辞めてそれを始めろよ」
「でも…」
それができないもしくはやらないヤツはすぐに言い訳をする。
金がないから、時間がないから、人(家族も含め)が止めろというから。
全ては自己正当化で何てことはない、やらない言い訳なのだ。
なんもやってねえでやってらんねえはねえだろ。
やってらんねえのはなんもやってねえからだろ。
と竹原ピストルも歌っている。
そんな文句タラタラ、目が死んでいるようなヤツと付き合っていても、エネルギーを吸い取られてしまい人生の無駄だ。
それよりも俺の周りには生き生きと人生を謳歌しているヤツらばかりだ。
そういう人と会うと、お互いにエネルギーを高め合うのがよく分かる。
この前オークランドで会ったユカちゃんは、トントン拍子に事が運び郊外でカフェを始めた。
開店当初から地元の人にも大人気で上手く行ってるとのこと。
その話を聞かせてもらったが、自分達が想像していたよりも早く事が運んでしまったと。
話を聞いて感じたのが成功をしているのに傲慢では無い、どちらかというと謙虚でありながら謙虚の度合いも卑屈ではない。
良い頃合いの所にいるのだ。
良い波に乗るとはこういうことだ。
それは自分自身の芯があり、行動があればこそだ。
実際に会わなくても今やSNSで世界から友人達の活躍が見える。
おとしという友人(元はお客さん)は、会社を辞め白馬に移り住みスノーボード買取の会社を立ち上げ、さらに自分でスノーボードも作り始めた。
これなんぞは行動力のたまもので、彼らに送る言葉は常に「その調子でどんどんやりなさい」だけだ。
その人に感化されたのか美容師の友人も白馬に移り住み、楽しくやっているようである。
友人というより弟分というか家来もしくは下僕のカズヤは白馬でガイドの会社を立ち上げた。
昔からの相方JCは何もないところから、北海道に移り住み今は鹿撃ちの漁師だ。
自分で食肉加工の建物を造り、立派にやっている。
新潟でスキーパトロールのかたわら、雑貨屋をやっている友もいる。
その他、とても全てはここで書ききれないが友人達は皆それぞれの場所で、芯を持ちつつ自分のやるべき事をやっている。
とどのつまりは、やるかやらないか。
それだけだ。
みんな やってるか?
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