僕の仕事はドライバーガイドである。
車の運転をしながらガイドをする。
1日に何時間も運転をするわけだが、怖いのは事故である。
ニュージーランドの国道は時速百キロで対面通行なので、事故が起きた時には大事故になる。
そして自分は悪くなくても事故に巻き込まれる事もある。
観光地などはレンタカーも多く、車の運転に不慣れな人もいるし、とんでもない大バカ者もいるからだ。
以前ミルフォードサウンドへ行った帰り道のことである。
前の車が道路の右側を走るのだ。これは怖かった。
時間柄交通量は少なく対向車はほとんどいないが、数キロもの間コーナーも含めそいつは右側を走り続けた。
僕は事故があっても巻き込まれないよう、充分な車間距離をとって走った。
幸いその間は対向車もなかったが、そういうヤツもいるのだ。
別の日には同じミルフォードロードで見通しの悪いコーナーで片方の車が反対車線を走り正面衝突をした現場に出くわした。
クィーンズタウン辺りのラウンダバウト(小さいロータリー)で逆走するレンタカーを時々見るが、まあこれくらいなら車はぶつかっても人は死なないが、ハイウェイでは事故は死につながる。
いくら自分は気をつけていても巻き込まれる可能性もあるのだ。
ある日、知り合いがこう言った。
「事故に会わないことを祈って運転します」
僕はピンと来てこう言った。
「それは違うぞ。事故に会わないように、ではなく無事に帰ってくることをイメージするのだよ」
一見同じに見えるがこれは違う。
事故に会わないようにだと、事故があることが前提となりそれを打ち消す。
人間は思ったことを現実化する力を持っている。
それも最初に思ったことをである。
なのでこの考えは事故を引き寄せてしまう。
たとえその後に『ない』をつけようが最初のイメージが現実となってしまうのだ。
なのでボクはいつも、その日の仕事を無事に終えて家に帰ってきてから美味しいビールを飲む自分をイメージする。
この考えは反戦運動と平和運動にも繋がる。
反戦運動は戦争というものに意識を当て、それに反対する。
そこに意識をあてている以上、それを望もうが望まなかろうが現実となってしまう。
なので戦争はなくならない。
それをするならば、皆が平和で仲良く暮らす世界をイメージするのだ。
病気も同じこと。
ボクの古い友達はアトピーで皮膚がボロボロになっていた時期があった。
彼女はビールが大好きなのだが、そのせいでビールも飲めない状態だった。
その彼女にボクは言った。
「アトピーが治ることを想像するのではないよ。その先のアトピーも何もなくなり健康で美味しいビールを飲んでいる自分をイメージするのさ」
今では彼女の肌はツヤツヤになり美味しくビールを飲んでいる。
さてこういう良いイメージを持っていても何かが起きてしまったらどうするか。
その時は100%の力でその場で対処をする。
自分がその場にいてできることをやるのだ。
「何かあったらどうするの?」とはボクが一番嫌いな言葉である。
何も無いことを心配して逆に『何か』を引き寄せてしまう。
何かあったら?それはその時に考えることで今考えることではない。
ボクは物事を良いことと悪いことで分けて決め付けてしまうことが好きではないのだが、悪いイメージが浮かんだらそれをその場で打ち消し、その先の良いイメージを持つよう心がけている。
それでも繰り返し悪いイメージが浮かんできたら、それは正面からそのメッセージを受け止め最悪の事態にならないよう心がける。
以前書いた、車の鍵が水に落ちる話がそれだ。
全ての物事には因果関係がある。
病気、怪我、事故、争い、諍い。
こういった一見悪い出来事も何かしらの意味がある。
故に健康、安全、平和、調和というものがありがたく感じられる。
ありがたく感じるということは感謝である。
感謝とは強制されるものではなく、自分の心から生まれるものである。
悪い出来事にさえも感謝をするべきなのだが、ボクもそこまで人間ができていない。
ただ今、目の前にある幸せを感じつつ毎日を暮らすのみである。
「それは難しい」と思えば物事は難しくなる。
「それはできない」と思えば出来なくなる。
そして「それはできる」と思えばできるのだ。
人間は物事を現実化する力を持っている。
それを望もうが望まなかろうが現実となる。
なればこそ全てを受け入れる。
自分の身に起こることは全て自分の責任であり、自分の思考が今ある現実を作り上げていることに気づくのだ。
ちなみにボクの将来のイメージとは。
ブロークンリバーで孫にパウダーの滑り方を教えることである。
ハイ、もうイメージしちゃったからね。
あとはそこに向かって進むだけなのだ。
車の運転をしながらガイドをする。
1日に何時間も運転をするわけだが、怖いのは事故である。
ニュージーランドの国道は時速百キロで対面通行なので、事故が起きた時には大事故になる。
そして自分は悪くなくても事故に巻き込まれる事もある。
観光地などはレンタカーも多く、車の運転に不慣れな人もいるし、とんでもない大バカ者もいるからだ。
以前ミルフォードサウンドへ行った帰り道のことである。
前の車が道路の右側を走るのだ。これは怖かった。
時間柄交通量は少なく対向車はほとんどいないが、数キロもの間コーナーも含めそいつは右側を走り続けた。
僕は事故があっても巻き込まれないよう、充分な車間距離をとって走った。
幸いその間は対向車もなかったが、そういうヤツもいるのだ。
別の日には同じミルフォードロードで見通しの悪いコーナーで片方の車が反対車線を走り正面衝突をした現場に出くわした。
クィーンズタウン辺りのラウンダバウト(小さいロータリー)で逆走するレンタカーを時々見るが、まあこれくらいなら車はぶつかっても人は死なないが、ハイウェイでは事故は死につながる。
いくら自分は気をつけていても巻き込まれる可能性もあるのだ。
ある日、知り合いがこう言った。
「事故に会わないことを祈って運転します」
僕はピンと来てこう言った。
「それは違うぞ。事故に会わないように、ではなく無事に帰ってくることをイメージするのだよ」
一見同じに見えるがこれは違う。
事故に会わないようにだと、事故があることが前提となりそれを打ち消す。
人間は思ったことを現実化する力を持っている。
それも最初に思ったことをである。
なのでこの考えは事故を引き寄せてしまう。
たとえその後に『ない』をつけようが最初のイメージが現実となってしまうのだ。
なのでボクはいつも、その日の仕事を無事に終えて家に帰ってきてから美味しいビールを飲む自分をイメージする。
この考えは反戦運動と平和運動にも繋がる。
反戦運動は戦争というものに意識を当て、それに反対する。
そこに意識をあてている以上、それを望もうが望まなかろうが現実となってしまう。
なので戦争はなくならない。
それをするならば、皆が平和で仲良く暮らす世界をイメージするのだ。
病気も同じこと。
ボクの古い友達はアトピーで皮膚がボロボロになっていた時期があった。
彼女はビールが大好きなのだが、そのせいでビールも飲めない状態だった。
その彼女にボクは言った。
「アトピーが治ることを想像するのではないよ。その先のアトピーも何もなくなり健康で美味しいビールを飲んでいる自分をイメージするのさ」
今では彼女の肌はツヤツヤになり美味しくビールを飲んでいる。
さてこういう良いイメージを持っていても何かが起きてしまったらどうするか。
その時は100%の力でその場で対処をする。
自分がその場にいてできることをやるのだ。
「何かあったらどうするの?」とはボクが一番嫌いな言葉である。
何も無いことを心配して逆に『何か』を引き寄せてしまう。
何かあったら?それはその時に考えることで今考えることではない。
ボクは物事を良いことと悪いことで分けて決め付けてしまうことが好きではないのだが、悪いイメージが浮かんだらそれをその場で打ち消し、その先の良いイメージを持つよう心がけている。
それでも繰り返し悪いイメージが浮かんできたら、それは正面からそのメッセージを受け止め最悪の事態にならないよう心がける。
以前書いた、車の鍵が水に落ちる話がそれだ。
全ての物事には因果関係がある。
病気、怪我、事故、争い、諍い。
こういった一見悪い出来事も何かしらの意味がある。
故に健康、安全、平和、調和というものがありがたく感じられる。
ありがたく感じるということは感謝である。
感謝とは強制されるものではなく、自分の心から生まれるものである。
悪い出来事にさえも感謝をするべきなのだが、ボクもそこまで人間ができていない。
ただ今、目の前にある幸せを感じつつ毎日を暮らすのみである。
「それは難しい」と思えば物事は難しくなる。
「それはできない」と思えば出来なくなる。
そして「それはできる」と思えばできるのだ。
人間は物事を現実化する力を持っている。
それを望もうが望まなかろうが現実となる。
なればこそ全てを受け入れる。
自分の身に起こることは全て自分の責任であり、自分の思考が今ある現実を作り上げていることに気づくのだ。
ちなみにボクの将来のイメージとは。
ブロークンリバーで孫にパウダーの滑り方を教えることである。
ハイ、もうイメージしちゃったからね。
あとはそこに向かって進むだけなのだ。