あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

想い入れ。

2015-09-12 | 日記
春である。
温室の中は日中は汗ばむぐらいだ。
すでにシソの芽が出始めて、気の早いカボチャも芽を出した。
水菜、チンゲンサイ、レタスなどはグングン育っている。
今年は今までやらなかったトマトも種を購入。
ズッキーニも種から育ててみることにした。
やってみて分かったのだが、野菜によって日が当たると芽を出すものと、暗くないと芽をださないものがあると。
人参やレタスなどは太陽の光で芽を出すが、ネギを始めトマト、茄子、かぼちゃ、大根など多くの種類は暗い所を好む。
なるほどね、野菜でもいろいろあるのだな。
そうやって種をポットに入れ1週間ほど。
なかなか出ないなと思っていたら元気な芽が出て双葉が広がった。
これが実に可愛い。
この想いが野菜作りに必要不可欠なのだと思う。
朝晩の水遣りも、水分だけでなく人間の気持ちも含み、野菜はそれを感じる。
我が家の庭でもあまり目の届かない場所の植物は上手く育たない。



僕はヒマさえあれば庭にいて何かしらの事をやっている。
堆肥を作ったり、雑草を抜いたり、土を耕したり、間引きをしたり、物によっては盛り土をしたり。
そういった行動の原点にあるのは自分の想いである。
そんな僕も自分が好きでない野菜は作らない。
人間誰しも好き嫌いがあるので好きでもない野菜を作る必要はないと思う。
食べて美味しいなと思う野菜をせっせと作ればいいのだが、そこに野菜に対する思い入れがある。
逆に言えば自分が好きでない野菜はうまく育たないだろう。
ズッキーニの双葉が広がったのは見ていて可愛いし、ネギなんぞ二つに折れ曲がった芽が伸びるところなぞ応援したくなる。
そうやって想い入れと共に野菜を見ていれば、水を欲しがっているのか、間引きしてほしいのか、鳥に食われないようにネットをしてほしいのか、やる事が見えてくる。
普段手を入れてない庭を時間ができた時だけちょっと耕し、苗を買ってきて植えてそれでおしまい、という話を聞いたことがある。
大切なのはそこから、毎日の水遣りや、雑草取りなどの手入れが大切なのだ。
水をあげるというのは水分だけでなく人の気持ちもあげることだし、雑草を取るというのはその植物の成長に邪魔にならないスペースを作ってあげることだ。
そういった地味な行動が大切なのだが、それも想いがなかったら続かない。
そしてその想いとは強制されて生まれるものではない、自然と自分の心に芽生えるものなのだ。
以前、他人様の言葉であったのだが、野菜作りとは自分を育てる事に通ずる。
結局のところ帰ってくるのは自分の心に還って来るのだ。
そして行動の原点である想いとは、すなわち愛なのである。
そして愛があれば野菜は上手く育ち、それを食べる自分達もハッピーになれる。
人間が食べないところもニワトリは喜んで食べて元気な卵を産んでくれてこれまたハッピー。
ニワトリが食べないところは、鶏糞と混ざり微生物が喜んで(たぶん)食べてハッピー。
幸せの好循環とはこうやってできる。
なに、簡単な事だ。
根底に愛があるか。
そしてまた、一番簡単な事は一番難しいことでもあるぞよ。



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