2008年4月30日のミクシー日記より
とある掲示板を見ていて今さらながら思った。
インターネットって怖いな。
それは『こういう所で人を批判したり、バカにしたりするのはどうなんスかね~、なんとかならないんスか?』というようなボクから見ればごくごく当たり前の質問だったのだ。
最初はボクから見て「ナルホドと」か、「フムフム」とか、「いいぞいいぞ」だったり、「え~そうかあ?」とか、「こういう人もいるわな」、「まあねえ・・・そういう見方を君がするなら、それはそれで仕方ないさ」ぐらいだった。
それがだんだんと、「ちょっと待てや、」「ホンマか、それは」「それを言うたら、あかん」「なに言うとんねん、ボケ」「よっしゃ出るところ出たろ、その代わり分かってるやろな?」「しばいたろか」となってしまった。
関西弁ってこうやって読むと怖いなあ。
それくらいあっという間に批判したりバカにしたりの世界になってしまったのだ。
たぶん、そんなのはボクが知らないだけで他にはいくらでも似たような話はあるのだと思う。
ボクが10年ぐらい前にネット初心者だった頃(今でも上級者ではない)ある友達とメールでやりとりをした。
彼女はニュージーランドに2回目。ボクがガイドをするというものだった。
彼女とメールでやりとりするうちに『なぜ、こんなになってしまったのだろう』と思えるぐらい関係は悪化してしまった。最後には友達に仲介を頼んだぐらいだ。
その時に思った。
ネットって怖いな。
たとえ友達でもこうやってケンカになっちゃう。これから気をつけよう。
それ以来、そういう失敗はしなくなったが、今でも自分の会った事の無い人、目を見たことのない人とのネット上のやりとりが苦手だ。
だけど、こういう場所から新しく友達ができる場合もあった。
きっちりと匿名ではなく、言葉に責任を持って語っている人とのつきあいは、人間と人間のコミュニケーションで大切なものなのだ。
そんな人とは1回飲んだだけで、充分お互いを分かりあえる。
ネット上では言葉は活字となって現れる。
そこに表情などは伴わない。
同じ言葉でも受取手によって大きく変わってしまう。
ささいな冗談だってケンカの売り言葉になってしまう。
だからだろうか、冗談のところ、「ハイみなさん、ここは笑うところですよ、真にうけて怒らないでくださいねえ」というところには(笑)が入る。
たぶん、あの(笑)がなかったら世の中もっと大変なことになっているだろう。
「オレは思わず笑っちまったぜ」という使い方もある。
人がやるのは気にならないが、自分は今までこれを文にいれたことがない。
一度でもボクと会った人ならば、ボクとはこういう人だって分かるだろう。
それで、「ああ、こいつは最近理屈っぽくなったなあ」とか「いいぞ、いいぞ、おまんの言う通りじゃけん」とか「まあたバカなこと言って、コイツは」とか「オマエらしいじゃん」とか「しばいたろか?」
とかいろいろとつっこんでくれる。
だが会ったことのない人は、ボクの書いた物を読んでボクのことを想像する。
だいたいの場合において実物よりカッコ良く想像する。
ネットの世界というのは相手が見えない。
繋がっているのはコンピューターを通した文字だけである。目と目を合わせるコミュニケーションでは無い。
疑い出せばキリがないが、ああいった匿名の掲示板の信頼性。
もちろんまともな意見だってたくさんあるけど、例えば、
「私はニュージーランドに来て3年、キウィのボーイフレンドができました。結婚しようか悩んでいます。みなさんどう思いますか?」
みたいな事を書いて出せばどうなるだろう。
もちろんやるならば、本当にそこに住んでいるようなもっと上手い書き方をするさ。そんな事意味がないからやらないけどね。
そうすると、それに対する答が山ほど出て、その中でケンカになっていったり、酷い中傷や批判も出てくるのだろう。
40近いオヤジが書いたものだと思わずにね。
顔の見えない世界ってそういう場所だと思う。
正直な話、あまり深く関わり合いたくない。
ミクシーをやっていても、会ったことの無い人間からのマイミクは断っている。会った事のある人でもたまに断る。
情報のソース(出所)というものがある。
ある情報がどこから来たのか?というものだ。
匿名の掲示版は情報の信頼性が無い。
全く無いわけではないが、それは受取手次第である。
例えば、この国に来て2~3年の人が持っている情報の中にはボクも知らない事があるかもしれない。それはその人の経験から来るものだろう。
だけどほとんどの場合は彼等が持っている情報とは、ボクにとって当たり前の事すぎて何の意味もない。
情報とはそれを発信する人の明確なる存在があって、初めて信頼性というものが伴う。
味オンチの人が教えてくれるウマイ店とシェフの経験を持つ人が勧める店だったらどっちに行く?
情報の交換というのは、お互いに同じレベルの情報を持っていてなりたつ。
情報のソースがはっきりしている、信頼できる情報にはそれなりの価値がでてくる。
「あの川のどのポイントにはどんな魚が居てどんな釣り方だとよく釣れる」
立派な情報である。
自分にはそれに対する情報は持っていない、交換できないというような場合、情報が必要な人はそれに対するお金を支払う。
ガイドと客の間で契約が交わされるわけだ。
以前にも書いたが、日本では情報は無料である。
サービスの一環としての情報である。
誰が書いたか分からないような情報が巷にあふれている。
それを読み判断するのは自分だ。
しっかしまあ、たかだか掲示板の事でこんなダラダラ書いちゃうオレもヒマだよね。
踊る阿呆に見る阿呆か。