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あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

土作り

2015-03-27 | 
クライストチャーチに帰ってきて毎日野良仕事をしている。
農業の基本は土作りである。
ここ数日はその基本をせっせとやっている。
うちでは肥料は3種類。
一つは家庭内で出る生ゴミをボカシという物で混ぜ、さらにニワトリエリアの土と混ぜ地中で寝かせる。
もう一つは大きめな穴に野菜の茎や葉っぱや根っこなどをどんどん入れていき、いつかは土に還るもの。
もう一つは鶏糞である。
ニワトリ小屋にはオガクズを敷き詰め、毎朝小屋の糞を拾いドラム缶サイズの容器にためておく。
だいたい半年でそれが一杯になる。
それをボカシ粉と混ぜ地中の穴に埋めてさらに半年寝かせる。
半年前にためた鶏糞肥料は袋に入れて小屋に保管。
畑を耕した時や、野菜を植える時に使う。
こういう作業をだいたい春と秋、年に二回行う。
ニワトリの餌にもEMを使っているので匂いもほとんどしない。
さらに1年も寝かせているので、臭さは全く無くオガクズもほどよく分解され良い土ができる。
畑の雑草はニワトリエリアにどんどん投げ入れ、それをニワトリが食う。
土が必要な時にニワトリエリアに穴を掘って土を取り、その穴にはニワトリが食わなかった雑草の茎や根っこなどを入れて、それがまた土に還っていく。
こうやって庭で還元サイクルが出来るのは、やっていて気持ちが良い。

温室のキュウリ、トマト、ズッキーニは絶好調で食い飽きるほどだ。
ぜいたくな話だ。
カボチャも大きな実がいくつも出来て、まだまだ育っている。
レタスも順調、サラダに事欠かない。
リーク(ポロネギ)長ネギには土を盛り、秋から冬にかけて収穫できるだろう。
その他、もろもろの野菜たちは庭ですくすく育ち、食卓をにぎわせてくれる。
ありがたや、ありがたやと大地の恵みに感謝をするのだが、同時に自分の行動も必要だ。
雑草を抜く作業は常にあるし、トマトには青虫がつき葉っぱを食ってしまうので一つ一つ手で取る。
青虫はニワトリの大好物で争って食べる。
農薬を使わない分、こういった作業は必要だ。
家庭菜園だから自分でやっていられるが、大きな農園ではやってられないだろう。
カボチャやトマト、キュウリも実がつきやすいように剪定をして、蔓などはコンポストへ。
こういう行動なくして旨い野菜は育たない。
行動、そこに加えて感謝の心、というか心から行動がくるのか。
その結果が庭の食べ物である。
今日もまた、ありがたや、ありがたや。
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庭の手入れ

2015-02-18 | 
週末から四連休、家で過ごした。
普段出来ない庭の手入れをした。
雑草を抜き、土を耕し、堆肥を入れ苗を植える。
陽射しはきつく汗が流れるが、それが気持ちよい。
手入れとは文字通り手を入れること。
土を触りながらそんな事を考えた。
人として大切なことがそこにあるのではないか。
土を触れば虫だってミミズだっているのに気づく。
見えないが微生物だっているのを感じる。
そういう虫達がいて野菜が育ち人がいる。
共生、人だけではなく、植物、動物、虫、微生物と共に生きるのだ。
現代人がこれほどまでに虫を嫌いになる理由はなんだろう。
快適で衛生的な無菌室のような空間で育つ事の恐ろしさを僕は感じる。

収穫そして保存というのも野菜作りの大切な仕事の一つ。
年末に収穫をして乾燥させておいたニンニクを女房殿に編んでもらった。
一年分のニンニクだ。
我が家ではこれをぶら下げておいて、使う分だけそこから取っていく。
また贈答用に五、六個の束も作る。
これがなかなか評判がよい。
大きな粒は来年の植え付け用に取っておく。
種などの自家採取は人類にとって当たり前の行動だが、アメリカではすでにこれは違法行為だ。
こんな当たり前のことが犯罪になってしまうとは世も末。
バカな世の中になったものだ。
幸いなことにここニュージーランドはそんな馬鹿ではない。
種を売っている業者でもちゃんとF1種はF1という表示がある会社もある。
表示が全くないところの種はF1と考えていいだろう。
日本に帰ったら野口の種を買ってお土産に持ってこよう。



庭を掘り起こしていたらジャガイモがゴロゴロとでてきた。
コンポストから勝手に育ったやつだ。
掘りたてのジャガイモでポテトサラダ。
玉ねぎも庭で取り残していたヤツだ。
そこに温室のきゅうりとトマト。
今年はズッキーニの出来が今一つだがきゅうりはよくできている。
パセリも花が咲いたが葉っぱも多少残っているのでみじん切りにして入れる。
自家製マヨネーズであえて庭のポテトサラダ完成。
当然ながら美味い。
チェリートマトなぞ木で実がはじけるほど熟しているので本当に甘い。
ほどほどに剪定もしているので食べきれないほどできる。
贅沢な話だな。

温室の中で紫蘇が生い茂っていたので適度に取ってクィーンズタウンの友達に持って行ってあげよう。
空いたスペースにはレタス、遅ばせながらズッキーニ、唐辛子などを植えた。
これらは秋になっても収穫できる。
リークも程よく育ってきたので盛り土をしてあげて、長ネギもまとめて植え替えて盛り土。
ネギ類は成長が遅いが保存もきき、長く楽しめる。
人参を間引きしたら見事に枝分かれして、足を絡めたようなヤツが取れた。
そんなことをやっていたらあっという間に四日間の休日が終わった。
先日、『百姓レボリューション』という本を読んだ。
これは大地震が来てほとんどの人が死に絶え、生き残った人があちこちで自給自足をしながら生きていく話しだ。
『日本沈没』のような暗さはなく、物語としても面白く一気に読んでしまった。
自分の中では『聖なる予言』以来の大ヒットだった。
半農半Ⅹという考えが基になって、半分農業をやり半分自分が得意とする仕事をしながら社会を作っていく話で、僕が考えている未来像と非常に似ている。
僕の今の状況も似ているところがあり、ガイドの仕事をしながらも野菜を作っている。
土を触る事により、いろいろな気づきがある。
それは自分の心を満たし、良い心理状況でツアーの仕事ができる。
野菜作りは自分の心を見つめる作業でもある
まっこと奥が深いぜよ。





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春の庭

2014-10-18 | 
春である。
日は一日ごとに長くなり、桜は散り木の新芽が芽吹く春。
うちの庭にも春が来た。
リンゴの花がつぼみをつけ、梨はすでに満開、イチジクが小さな実をつけ始めた。
温室の中ではえんどう豆がすごい事になっている。
冬の間に育ったマメは2Mぐらいの高さになり、さやをたわわにつけて収穫が間に合わない。
取っても取っても食べきれないぐらいのえんどう豆。
さやえんどうは収穫の時を逃すと、さやが固くなってしまう。
スジっぽくなって美味しくない。
だが葉っぱが生い茂ると、その陰にかくれていたりするのでそのまま放置して豆を収穫する。
最近はちょっと食べ飽きたかな、というぐらいで友達にもどんどんあげる。
ソラマメのさやも膨らんできたのであと1週間ぐらいで収穫だ。
そうなったら今度は食べきれないぐらいのソラマメだ。
温室の中ではシソが大きな葉っぱをつけトマトが花を咲かせ始めた。
温室万歳ですな。





まもなく夏の仕事が始まり忙しくなるので、今のうちにできる事をやる。
先日は卵を産まなくなったニワトリを絞めた。
いつもどおり木にぶら下げて血を落とし羽根をむしった。
首の辺りの皮がやぶれていて羽根と一緒にくっついていたのだが、周りをウロウロしていた犬のココがムシャムシャと食べてしまった。
「オマエそんなものまで食べちゃうのか、じゃあこれはどうだ」
ニワトリの足を手斧でぶった切り、それをあげたら喜んでバリバリと食べてしまった。
「ワイルドだなあ、生で食っちまうんだ。じゃあこれもいっちゃうか?」
頭をあげたら、それも喜んでバリバリやっている。
さすがにそれは見たくなかったので、僕はせっせと羽をむしる。
いつもは足も頭も一応火を通してから犬にあげるのだが、生で喜んで食うのなら手間が省ける。
はらわたは臭みを消す為にしょうがと一緒に甘辛く煮て、モツその他はさっと茹でて犬のエサ。
ガラはスープを取ってこれまた犬のエサ。
実はスジを取って叩いて、おろししょうが、塩、醤油、ミリンを加えて肉団子にして油で揚げてみた。
これが又、美味い。そのままでもいけるし、酢豚のように野菜と一緒に炒めてもいけそうだ。
こうして犬を含め我が家で、一つの命を跡形もなくいただいた。



春は新しい命の季節でもある。
種から芽を出させ育てるのだが、これが又一手間かかる。
大根、人参、などは地面にパラパラと蒔くのだが鳥に食べられないようにネットをしてあげなければならない。
それから大きな種のものはポットに入れて発芽させる。
ズッキーニ、きゅうり、ひまわり、おくら、そういったものは温室で育てるのだが、夜の間にネズミに種を食べられてしまった。
昼間は暖かい温室で育て、夜は家にいれてと、何かと手間がかかる。
これは人間も動物も鳥も同じで、生まれて直ぐの物は弱い。
弱い故に親とか誰かが面倒を見てあげなければならない。
芽が出始めても水の勢いでダメージを与えてしまうこともあるから、水遣りも丁寧にやらなければならない。
そうやって考えると種から育てるより苗を買った方が楽である。
僕も全ての物を種から育てるのではなく、苗も買ってきて植える。
まあバランスを取りながら、自分にできることをやるのだ。
何でもかんでも自分でやろうとしたら大変だからね。



今年の新作はイチゴ畑。
苺は今までもやっていたのだが、さらに改良を重ねた。
どの果物でもそうだが木で熟した物は甘い。
だがその辺は鳥も分かっているので、食べごろになると鳥に食べられてしまう。
今まではネットをかけたりしたが、今回はその場所を常時苺畑と断定する金網を設置。
そして苺は地面に接すると直ぐに傷んでしまう。
なので藁を買ってきて苺の隙間に敷き詰めた。
その前には徹底的に雑草の駆除に肥料をたっぷり、そして株分け。
その辺にあった大きめの石を踏み石として置いた。
金網は温室の残りの材木で開閉式。
収穫の時だけフタを開けて中へ入る。
こうして立派な苺畑のできあがり~。
すでに赤い実をつけ始めている。
今年は甘い苺が食べられるぞ。





卵は相変わらず毎日4個。
シルバービートとか春菊は雑草のようにあちこちで生えている。
豆は取っても取っても食べきれない。
食べ物に囲まれた暮らしというのは、餓える心配がないという安心感でもある。
そこで心から湧き上がる想いは感謝。
何に対してか?と問われれば、大地の恵みに、いただく命に、安心して住める社会に、母なる地球に、明るい家庭に、そして生かしてもらっている自分自身に。
ありがたや、ありがたや。





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犬のいる生活

2014-07-14 | 
犬を飼い始めて3年近くになるか。
我が家のココももうすぐ3歳である。
子犬の時は庭の畑を荒らしたりニワトリを襲ったりとずいぶんいたずらもしたが最近は落ち着いてきた。
番犬という言葉があるが、ココは誰かが来ればとりあえず吠える。
なのでちょっとした外出ぐらいだと家に鍵をかけない。
夜も鍵をかけない。
僕は家に鍵をかけるのが好きではない。
できれば鍵のない家に住みたいのだが、今の世の中そうも言っていられない。
以前間借りしていたクィーンズタウンの家は鍵をかけない家でとても居心地が良かった。
これだって男だけで住んでいたからの話で、女の人がいたら違うかもしれない。
そして都会だったらこれまた違う話になるだろう。
何重にも鍵をかける人はいるだろうが、その想いが逆に泥棒を引き寄せてしまう事もある。
まあ自分は鍵が好きではないということで、そこで番犬。
出かける時にはココに「留守番頼むよ」と声をかける。
あーあ、連れて行ってくれないのか、と詰まらなそうな顔をするが帰ってきた時は嬉しそうに飛び跳ねる。
人類がまだ洞穴に住んでいた頃、最初に仲良くなった動物が犬だ。
犬が一緒にいることにより人間がそれまで持っていた外敵からのストレスが減った。
その分のエネルギーを別の所へ回す事が出来る。
そうやって文明という物ができていったのだろう。

この犬のココ、性格はいたって温厚、かなり辛抱強い。
だが小さい犬、それもキャンキャン吠える犬が好きでない。
この辺は飼い主の僕に似てしまったのだろうか。
好きなスポーツは水泳、種目は犬かき。
泳ぎは達者で暑い時は気持ち良さそうに泳ぐ。
ただし寒中水泳はさすがに好きではないらしい。
日課の散歩は僕が自転車に乗って近くの公園を一周。
だだっ広い空間を走り回るのはやはり楽しそうだ。



犬の寿命は人間より短い。
子犬から飼い始めても人間より先に死ぬ。
死が辛いから動物を飼わないという人もいる。
それはそれで結構。
僕はいずれやって来る死から目を背けず、今という瞬間を大切にしたい。
散歩に行きたがらない娘に、「お前、ココが死んだ時に『もっと散歩に連れて行ってあげれば良かった』と後悔するぞ」と言っているが、どこ吹く風である。

今日も僕はココと一緒に自転車で走る。
遠くの山には雪がうっすら。
今年は雪不足で、まだ僕が行くスキー場は開いていない。
今週末から10日ほどスキーと関係ない仕事があるので、本格的に滑り出すのは8月に入ってからだろう。
こういう時は9月10月にどかーんと大雪が降ったりする。
パウダーはいくらでもあるのに滑りに来る人がいない、という事もあり得る。
その時に僕はあの山から、どんな気持ちでこちらの街を見るのだろう。
犬と一緒に山を眺めながら、そんな事を考えた。




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石畳

2014-07-05 | 
雪が降らない。
ここ数日は気温が冷えて雪も多少は降ったが、まだスキー場オープンにはもう一降り欲しい。
昔世話になったスキースクールの校長が言っていた。
「スキーヤーなんて物はだな、雪が降らなきゃただの人以下だ。士農工商えた、その下に来るぐらいのものだ。」
そこまで落とす事もなかろうにと思うがスキーができるからって傲慢になるなという事だ。
スキー場が開かなければ僕も仕事がない。
なので毎日毎日畑を耕すのである。
雪が降らなく暖かいということは、スキーヤーには困ったことだがスキーをしない人には喜ばしいことだろう。
おかげでニンニク200株の植え付けも済み、庭の畑がきれいになり、より菜園らしくなった。



家の畑には石が埋まっている。
ここには昔プールがあったそうで、それを崩して埋め立てたのだろう。
ちょっと掘ると大きな石がゴロゴロと出てくる。
大きな物は40cmぐらいになろうか。
そんなのが深さ30cmぐらいのところに折り重なって埋まっている。
以前から気になっており、浅い所のヤツは掘り出してそこに土を入れたりとしていたが、今回は深く掘って大きな石を掘り出した。
前まではそれらの石はいつか捨てようとガレージの裏に放っておいたのだが、今回は多量に出たので何かに使えないか考えた。
ふと温室の入り口の所に大きな石を置いてみたら踏み石にちょうどよい。
それならば人がよく通る場所に並べて、隙間に粘土質の土を入れて、といった具合で1本の道ができた。
そんなおりに友達のマサトが遊びに来て庭を見て言った。
「いいじゃん、この石、これって買ったら高いよ」
その一言でぼくの中でのイメージが一転した。
それまでは、『前の住人が残した厄介な邪魔物』だったのが、買ったら高いという一言だけで『宝の山』となってしまった。
人間の思考とはいやはや浅ましいものである。



僕の行動の基本的な考えはそこにある物を使う。
使える物は知恵を絞って使う。
庭に転がっていた角材は綺麗にして温室の骨組みになった。
使わなくなったスキーは温室の外壁の一部となった。
庭に埋まっている石だって、行動力で貴重な資源となる。
形も大きさもバラバラだが、パズルを組むような感覚で試行錯誤を繰り返し立派な歩道ができた。
歩道のレイアウトだって、お茶を飲みながら考えに考えて決まったのだ。
まあ、こうやってお茶を飲みながらいろいろ考えるのが好きなんだけどね。
学校から帰ってきた娘が僕の作業振りを誉めてくれた。
「すごーい、お父さん。でもさ、庭がこんなに変わったけど、変わる前の写真を撮った?」
「撮ってない」
いつものことだがノリでなんとなく初めて、いつのまにか夢中になり、気づいた時にはかなり出来上がるというものなので、毎回作業の前の写真を撮っておけばよかったなあと後悔する。
娘は冷静だ。



こうやって歩道ができるとさらに畑を広げたくなる。
畳一畳分ぐらいの芝をはがしてもう一区画増やした。
はがした芝生は、以前コンクリート舗装をした横、雑草と砂利が混ざっている場所へ移植。
徹底的にそこにある物を使う。
寝かせておいた堆肥を新しく掘り起こした場所にいれて耕し、ここには玉ねぎでも植えようかな。
こうして庭は進化していく。
今度はもっとマメに写真を撮ろう。


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冬至

2014-06-23 | 
季節は巡る。
南半球では冬至を迎えた。
毎年思うのだが、冬至の近くというのは日の出日の入りの時刻というのはほとんど変わらない。
クライストチャーチでは日の出は8時、日の入りは5時でここ1週間ぐらい変わっていない。
この毎日の変化が一番大きいのは春分、秋分の辺りである。
秋の日はつるべ落とし、なんて言葉もあるが、秋の日の入りはそれまでの夏から見ればそれこそあっという間であり、つるべお落としなんて上手く言ったものだ。
それぐらい春とか秋は毎日に変化があるのだが、今の時期というのは太陽の傾き、日照時間の長さはほぼ一定だ。
これはちょうど潮の満ち干きに似ていて、満潮と干潮の時には満ち干きは止まる。
そしてしばらくすると満ち干きの変化はどんどん大きくなっていく。
潮見表のあの放物線のグラフ、あれを日照時間に当てはめれば線が下がりきった場所が今なのだ。
そ大きなスケールで言えば、地球が太陽から一番遠い場所を通過している。
ここから放物線に沿って地球は太陽に近づいていく。
よく今回も同じ軌道で回ってくれました。
「ええい、このコースはもう飽きたからどっかへ行っちゃえ」と言ってそのままピューっと宇宙の果てへ飛んで行っちゃうこともなく、地球は同じ軌道で回る。ありがたや。
こうやって天体の動きに想いを馳せるのもこの時季あればこそだ。
ちっぽけな存在ながら自分が宇宙の一部であるという思いを感じるこの季節はきらいではない。
冬至とは冬に至るという意味で、これから冬に向かって行きますよ~という具合なのだが、僕の感覚では一番寒く感じるのは今の時期だ。
ニュージーランドでは紫外線が強く太陽が出ていれば暖かい。
これから気温はもっと下がっていくのだが、太陽の動きはこの時点から明らかに春そして夏に向かっていく。
まだ僕の冬は始まってもいないのだが。

冬といえば雪であり雪山でありスキーやスノーボードの時季である。
人工降雪機のあるスキー場はすでに営業を始めたが、僕が行く場所は天然雪のスキー場。
まともに滑るのは7月に入ってからだ。
ニュージーランドのスキーシーズンは短く7月から9月の3ヶ月ぐらいか。
日本で言えば1月から3月と考えればかなり短いのが分かるだろう。
若い時には人工降雪の仕事をやったこともあった。
人工雪というのは気温がマイナス4℃以下にならないと雪にならない。
今はたぶんテクノロジーの進化でもっと気温が高くても雪が作れるようになっているだろうが、普通に考えて氷点下にならないと雪はできないはずだ。
雪を作る仕事の時は気温が下がらなくて機械をまわせられないということがよくあった。
気候が狂っているのは地球規模での話だがニュージーランドも無縁ではない。
いつもは寒さをひしひしと感じるこの季節だが今年は暖かい。
我が家でもヒーターをほとんど使っていない。
日中はポカポカ陽気で庭仕事をしていると汗ばむぐらいだ。
かと思えば地球の裏側では、本来なら暑い場所で雪が降ったりしている。

http://119110.seesaa.net/article/399898582.html

http://119110.seesaa.net/article/399797194.html

http://119110.seesaa.net/article/399712991.html


まあ、どんなことが起きようが全てをありのままに受け入れようとしているので、暖かい気候はありがたく庭仕事に精を出してしまう。
ニンニクは冬至に植えて夏至に収穫という言葉があるが、今年は200株近くのニンニクを植えた。
そして温室のおかげで野菜は青々としている。
この時季にガーデンサラダが食べられるのは有難いことだ。
温室の中に植えている野菜はレタス、白菜、キャベツ、ほうれん草、イチゴ、さやえんどう、などである。
家の庭はスズメも多く、この時季ほうれん草やレタスやえんどう豆は食われてしまうのだが、温室の中には鳥が入ってこれないので野菜もよく育っている。
温室万歳なのだ。







とにもかくにも今年も半分はなんとか終わろうとしている。
あとの半分はどんな事が起こるのか予想もつかないが、その時に自分ができることをやるのみである。


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収穫という作業

2014-05-31 | 
今年はリンゴがよくできた。
全部で100以上も大きな実ができて、あまりの多さに枝はしなり木が倒れそうになった。
なので間引きを兼ねて早い時期に半分ぐらい収穫した。
残りは木で熟させ赤くなったものから食っていった。
一度に収穫をしてしまうのでなく、その時に食べる分だけ取った。
このりんごが旨いのなんのって、妻曰く「今まで食べたリンゴで一番旨い」と。
僕もそう思った。
何よりリンゴの中の蜜がすごい。
リンゴを甘くするために蜜を注射する、なんて話を聞いたことがあるが我が家のリンゴはそんなことしなくても蜜がたっぷりで甘い。
個体によっては甘すぎるぐらいだ。
贅沢な話だな。



リンゴの木を買ったのは3年前か。
品種はフジ。
フジという品種は富士山のフジだと思われがちだが、本当は青森県の藤崎町のフジなのだと青森が選挙区の元厚生大臣が教えてくれた。
最初の年は3個ぐらい。
去年は15個ぐらい実がなった。
そして今年は枝がしなり木が倒れそうなぐらいに実をつけた。
間引きをして残ったものは日が良く当たるように回してあげた。
肥料は堆肥を作る時に出る液肥を時々根元にかけてあげた。
枝が混み過ぎないように剪定もする。
人間と植物の関係は、どれだけそこに目を向けてあげるかだと思う。
放っておいて育つ木もあるが、気持ちを込めて水遣りをしたり声をかけてあげたり枝が折れないように支えたりという人間の気持ちからくる行動も重要な要素だと思う。
そして収穫は食べる分だけ。
これが大切だ。



新鮮というのは最大の旨さである。
野菜でも果物でも取り立てというのは文句なしに旨い。
物によってはすぐに傷んでしまうものもあるし、割と長持ちするものもある。
長持ちするからとつい食品庫などで保存をしたくなってしまうが、できることなら食べる分だけ採るというのが理想だ。
理想だが効率は悪い。
特に産地と消費地が離れている場合にはそれは不可能だ。
我が家の場合、リンゴを取りに行くまでかかる時間は30秒ぐらい。
なのでこれができる。
そしてこうやって食べる分だけ採っていると、自分が育てた木と言えど自然からの物を頂く謙虚な気になる。
そして次に出る感情は感謝だ。
1回で収穫を済ませてしまえば楽だし効率は良いだろう。
だが効率の良さを追い求めた結果、世界はどうなった?
人間とは何とか楽をしようと色々な工夫を凝らし文明という物を築きあげてきた。
だがやはり今の人類に、何か大切なことを失ってしまったという気がぬぐえない。
原点に戻り、食べるものを自然から戴く喜び。
新鮮で旨い物を食べる感動。
これが毎回の収穫で味わえる。
家庭菜園だからこそできることがある。



そうやってリンゴを毎日食べているうちに残りのリンゴが3つになった。
旬が終わろうとしている。
短い秋が足早に過ぎ去り、冬がやって来る。
だが家のリンゴが無くなったらお店でいつでも買える。
便利な世の中だ。
時々思うのだが、「ここまで便利じゃなくてもいいのになあ」と。
全てにおいて効率は良くなったが、同時に失われた物も多い。
しかしそれを知りつつ生きるのも人間。
便利ならば便利な事に感謝をしよう。
こうやってブログが書けて写真が乗せられることにも感謝ですな。
ありがたや。

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台風一過

2014-03-07 | 
夏の忙しい時期も一段落して、まとまった休みが取れたので家に戻ってきた。
僕が不在の間、庭は女房に任せてあるのだが、仕事をして家の事をやり子供の面倒を見てズンバや絵のクラスに通うという超多忙な生活では庭仕事にも限りがある。
今回は1週間ほど時間があるので徹底的に庭のことをやろうと帰ってきたら、クライストチャーチは大雨で洪水。
風も強く市内各地でいろいろな被害があった。
友達からも心配してくれるメッセージが届いた。
その友達はニュースの映像を見て、「あいつの所は大丈夫かいな」と思ったのだろうが、何なのだろう、この胸にひっかかる感じは。
地震の時にもそうだったのだが、遠くにいる人はニュースでその事を知り知人友人家族の安否を気遣う。
ニュースは当たり前だが一番被害の大きい所を映す。
それを見た人はクライストチャーチ全部がそうなってしまったかのように考えるのではないか。
逆の極論では、ニュースがなかったら心配もないわけだ。
実際今回の雨はすごく、僕も娘を学校に送って行った時にあちこちで洪水にはなっていたが、僕の生活エリアの範囲ではニュースのようなひどい洪水の所はなかった。
僕もニュースを見て初めて街の反対側のエリアはひどいことになっているんだと知った。
ニュースを見て、聖のオッサンは大丈夫かいな、と思ってくれるのはありがたいのだが、そこに疑問を持ってしまう自分がいる。
メディアが流すニュースという物が持つ、野次馬根性みたいなものか。
大きな災害を期待するようなところが、対岸の火事を見物したいという想いが自分の心にないか。
今やニュースはエンターテイメントだ、とは友人が言った言葉だが僕もそう思う。

マスコミの悪口を書きたい訳ではないが話が逸れた。
嵐が去り青空の下でやっと庭仕事ができた。
今回の嵐では我が家の被害は温室の屋根の破損とリンゴの木が倒れそうになったくらいだ。
温室の屋根は風で吹き飛ばされそうになったので、嵐の間は上に石を乗せておいた。
破損箇所を補強、作業時間30分。
リンゴの木にはリンゴがたわわに実り、その重さで倒れそうになったので支えを新しくして、間引きをかね大きな実は収穫した。
風で自然の落ちたものもあり、大きなリンゴが60個ぐらい取れた。
まだ倍以上のリンゴが木になっている。
保存食でいいのは何かな。
コンポートを以前作ってみたけど、イマイチだった。
リンゴジャムもそんなに食べないだろうしな。
リンゴジュースを作って発酵させてサイダーというお酒にするのもありか。
こうやっていろいろ考えるのも楽しい。



温室の中では野菜はすくすく育ち、葉っぱの陰に巨大きゅうりを発見。
これだけでかくなったら味はどうなるのだろう。
きゅうりは5株植えたのだが食いきれないぐらいにできた。
クィーンズタウンの友達にも喜ばれている。
トマトもいい出来で次から次へと赤くなっている。
これがまた甘くて美味い。
茄子もそろそろ食べられる大きさに育ってきた。
オクラは今年はじめて3株ほど植えてみたが育ちすぎてしまい硬くなってしまった。
収穫の時期というものがあるのだな。
これも経験。
ピーマンも今年は4株。大きな実をつけ順調である。
温室を作ったからといって調子に乗って始めてみたスイカ。
今のところ、実ができたのは一つ。
ハンドボールぐらいの大きさで、一体これが美味いのか不味いのか。
何も分からないままにやってみるというのも楽しい。
失敗を恐れると何もできなくなるが、失敗をそういうものだと思えばいいだけの話だ。
たとえスイカが甘くなくても、所詮ウリなのだから漬物にでもすればよかろう。



温室の外では長ネギが絶好調。
毎年作るのだが、家のネギは美味いぜよ。
これから秋から冬にかけてネギは根の部分が太くなっていく。
土を盛ってあげればその白くて甘い部分がそれだけ長くなる。
これですき焼き、たまりませんなあ。
春菊とシルバービートは雑草状態であるし、採りたて卵ですき焼き。
食べたい人は我が家へどうぞ。



これからの時期は秋蒔きの大根などやってみようか。
そうだ、温室の夏野菜が終わったらスペースが出来るからそこに何を植えようか。
楽しみは尽きないのである。
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進化する庭

2013-10-27 | 
ご満悦である。
数ヶ月前から続いていた温室作りがやっと一段落した。
所々隙間があるが夏の間はこれで充分というぐらいにできた。
これも作務の一つ。
そして好きなことで楽しいことでもある。
こうなればいいなあ、と想ったことは実現するのだが、数ヶ月前に何もない所に温室が建っている姿をイメージした。
そして今そこに温室がある。
おおむねイメージした通りの物だが、大きさは最初の予想よりもかなり大きくなった。
中に植える野菜はトマト、ピーマン、枝豆、きゅうり、茄子、唐辛子、オクラ、そんなところかな。
野良仕事をしていて突然にわか雨が降ることもあり、今までは家の中に退散したが温室の中ならばそこで作業もできる。
屋根に当たる雨の音、そして鳥の声を聞きながら作務をするのもいと楽し。
このご時世で大きな温室は一つの財産だと僕は思う。
気候というものが今までと全く違うからだ。
「天の異変気付と申してあろが冬の次が春とは限らんと申してあろが。夏雪降ることもあるのざぞ。人民の邪気が凝りて、天にも地にも、わけの判らん虫わくぞ。」
「冬の先春とばかりは限らんと申してあること忘れるなよ。用意せよ、冬に桜咲くぞ。」
と日月神示でも言っているが、何があってもおかしくない時が来ている。
仮に夏に雪が降ったら夏野菜は全滅だ。
そんな中でも人間は物を食べて生きていかなければならない。
そうならないことを願うが、今の世界の天気ニュースを見ていると洪水と干ばつが同時に起こり、猛暑の中で雪が降ったりとメチャクチャだ。
ここで言っておくが、そういう可能性があり、恐怖にかられ温室を作ったわけではない。
自分だけ、自分の家族だけ助かりたいからというエゴではない。
自分の心にそういう思いがあったらきっとうまくいかないだろう。
旨くて健康な野菜を食いたい。これが根底で人間の欲求の原点だ。
それを家族にも友達にも食わせたい。
できることなら世界中の人にうちの野菜を食べてもらいたいが、個人の力では限界というものもある。
なので友達に卵や野菜を配って歩く。
自分ができることとは自分を知るところから、自分の内側を見るところから始まる。
そして直感に基づき出来たのがこの温室なのである。



温室の壁は大きな窓がいいなあ、と漠然と思っていた。
人間は考えることが現実化するという力があるのだが、それには行動も必要である。
想っていれば行動を起こすタイミングは向こうからやってくる。
ある時、近所のリサイクルショップへ立ち寄るとおあつらえ向きの窓があった。
値段は80ドル。即決。その場でニコニコ現金払い。毎度あり~、チーン。
もうひとつ同じようなサイズもあるが、どうしよう。
ええい、買っちゃえ。毎度あり~、チーン。
この二つめの窓は家に運ぶ途中で割れてしまい、ゴミが増えてしまった。
そういうハプニングもありながら温室計画は続く。
おおまかな計画はあったが、状況と気分で現場は変わっていく。
ニワトリエリアの柵を修理するついでに少しずらしたらスペースが出来たので、ええい温室も広げちゃえと出入り口をもう一つつけてしまった。
そうなると梁が長くなるから真ん中に柱をもう1本立てて補強も必要だ。
穴を掘りコンクリートを練って柱を立てた。
屋根材は奮発してホームセンターで新品を購入。
大きなガラス窓のドアが20ドル。これをスライドドアにした。
そうやってなんとか形ができた。



土は粘土に近いので近くのガーデンセンターからコンポストを買って一輪車でせっせと運びこみ、自分で作った堆肥と鶏糞を寝かせたものと一緒に混ぜ込む。
トマトを2種類、大きな実になるタイプとチェリートマトを植え、下草用にレタスの種をばらまいた。
ピーマン、きゅうりも植え、枝豆もそろそろ芽が出る頃だ。
茄子やオクラはこれからだな。
そして今僕はイメージする。
温室の中で野菜がグングン育っている姿を。
みずみずしいトマトがたわわに実っている姿を。
青々としたレタスが大きな玉をつけている姿を。
枝豆が実り、それを子供が収穫して喜んで食べている姿をイメージする。
イメージができたら行動。
行動が作務であり、行動あればこそ現実化するのだ。



クライストチャーチの中心部もニュージーランド流にゆったりと復興は進む。
たまに行くと新しい建物が出来ていたりする。
そうなると以前はここに何があったのか思い出せない。
家の庭も同じでどんどん進化すると前の状態を忘れてしまう。
以前の写真を探して引っ張り出してみた。



これは4年ぐらい前か。シーズンが終わって山の道具を日干した写真である。
この時点でも庭はかなり進化しているのだが、庭の写真で残っているのはこれが一番古い
まだ庭の真ん中にキャベッジツリーがある。


そして今の写真。こうやって比べるとよく分かる。



キャベッジツリーを切って、その後で根っこを掘り起こした。
この木は分解されにくく埋め立てゴミである。
この木を捨てるのもトレーラーを借りて、近所のゴミ処理場に捨てに行った。
埋め立てゴミなので値段も高く200ドルぐらいかかった。



ニワトリコーナーも最初はこんなに広かったんだなあ。
今はこの半分ぐらいの広さで、イチジクの木と梨の木が育っている。。


この菜園と温室は財産である。
人間の社会ではこの土地は一応我が家の物だが、もともと地球の物を人間が所有するという概念がおかしい。
僕はこの土地を地球から借りている物と考える。
そうなると有害な化学肥料を使わないとか、除草剤を使わないというオーガニックへの流れは自然なものだ。
庭の手入れをしてきれいにすれば野菜も喜びよく育つ。
人間が傲慢になり自然をコントロールするのか、それとも謙虚な気持ちで自然に逆らわず出来る事をするのか。
今、人類の選択の時は来ている。
この庭はその選択の一つの指針となるだろう。
コメント (7)
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土方

2013-04-18 | 

僕は若い頃からいろいろな仕事をやってきた。
高校の時には夏休みのアルバイトで土方もやった。
当時高校生のバイトは自給500円ぐらいが相場で、日給6000円というのは破格の給料だった。
仕事はきつかったが、朝から晩まで明るい時間の仕事で、施主さんが10時3時には飲み物を出してくれたりおやつを持ってきてくれたりと、健全な仕事だった。
そこで基礎コンクリートを打つ仕事をした。
土地を均し、水平をとって型枠を組み、鉄筋を入れてコンクリートを流し込む。
高校では建築科に進んだので、授業でコンクリートの破壊試験などというものもやった。
コンクリートは圧縮に強く引っ張りに弱い。そこで引っ張りに強い鉄筋を入れて鉄筋コンクリートを作り強度がどのように増すか、というような実験である。
学校の授業でやって知識を得ていたが、実際に現場でやってみて「なるほど、こういうことか」とあらためて感じた思い出がある。
というわけでその経験をいかして家のドライブウェイコンクリート舗装計画第三弾、作戦名は「三度目の正直者」。深い意味はない。
以前のブログでも書いたが、大体4m四方ぐらいの広さで道の方から第一期、第二期と舗装をして、工事はそこで止まっていた。
夏の間は仕事が忙しくてとてもそれどころではないが、時間にある程度余裕ができると土方の神が「さあさあ、続きをやりなさい」とささやきかける。
温室の神サマもいるのだが、どうやらそれは後回しのようだ。
一期工事ではきっちりと地面に点圧をかけたが、地盤がしっかりしているのと勾配が緩やかになったのとで二期工事からはちょうど良い深さに掘り点圧はせずにコンクリートを流し込んだ。
さらに一期工事は自分でコンクリートを作るという暴挙に出たが、二期工事はミキサー車で頼んだ。
三期工事もあらかじめ邪魔になる木は切ってあるので段取りはできている。
そしてある日突然。そう、思い立ったように作業は始まった。
土を削り水平を出して型枠を組む。
削った土はネコ(一輪車)で庭の隅へ運ぶ。
何故か分からないが一輪車のことをネコもしくはネコグルマと呼ぶ。
型枠を組んだら鉄筋を入れる。
鉄筋は近くのホームセンターで売っている出来合いを使う。
こういう土方の仕事はきらいではない。





土方という言葉で思い出したのだが、今や土方も差別用語なんだそうな。
バカバカしい話である。
じゃあ大工は?左官は?鳶はどうだ?
それらが差別用語でなく土方が差別用語だということがおかしい。明らかに土方を下に見ている。
家を一軒建てるのだって、土方が基礎を打って大工が建物を建てて鳶が足場を組んで左官が壁を塗る。
どれが上でどれが下という話ではないのだ。
第一、僕は差別用語という言葉が嫌いである。
めくら、おし、つんぼ、ちんば、かたわ。
どれも皆由緒ある日本語だ。
今まで何百年もこういう言葉を使い日本人はやってきた。
言葉自体はその状態を表すもので差別でもなんでもない。
それを差別用語と言うヤツの心に差別があるのだ。
言葉をすり替えても差別する心があったらそれが差別用語となる。
今や名作「ちび黒サンボ」も差別用語だと言うし、きわめつけは看護士。
この言葉も大嫌いだ。
人を看護するという事において男より女の方が優れている。
だから看護婦なのである。本質はそこだ。
なんで男の看護士のことを看護夫と呼ばないのか。
男と女は違うものなのにそれを認めず、全てを平等にしようというバカなヤツが言い出した言葉だ。
そういうヤツは、表向きは偉そうなことを言って大層な肩書きがあるのだろう。
だがそいつに差別する気持ち、人を看る仕事を一段見下す心がある。
なので看護婦という美しい日本語が消え、看護士という味も素っ気もない言葉が出回る。
この前出会ったお客さんはお医者さんだったが、会話の中で普通に「看護婦さん」と言っていた。
こういうお医者さんがいると、何故かホッとする。
戦後GHQが電通に、『言霊』という言葉は一切使わないようにきつく命じたと言う。
言霊、美しい言葉ではあーりませんか。
言葉には魂、霊が存在する。
端的な例をあげるが1日100回ありがとうと言う人と、1日100回ばかやろうと言う人。
これだけでその人の暮らしぶりが想像つく。
きちんとした言葉にはきちんとした霊がつき、荒れた言葉には荒れた霊がつく。
そういう僕も若い時はそれがカッコいいと思い、汚い言葉を使ったものだが最近は使わなくなった。
以前、車を運転している時、狭いコーナーで大型の車とすれ違った。
何の気なしにFワードを言ったのだが、その瞬間に石が飛んできてフロントガラスにぶつかった。
ストーンチップと言ってこちらではよくあることなのだが、それ以来僕は汚い言葉を全く使わなくなった。
英語の言葉にも言霊はあるんだなあ。
言霊というのは深く掘り下げれば、日本人のアイデンティティーや精神性の高さに繋がる言葉だと思う。
権力者が恐れているのは、その日本人の心である。なので『言霊』を禁止した。おおいに頷ける。
ここで土方に戻る。
土方とは穴を掘ったり、土を運んだり、土を積み上げたり、とにかくそういう土に関する仕事である。
僕はこの言葉が差別用語になろうが放送禁止用語になろうが使い続けるだろう。(看護婦も)
自分が若い時にちょっとだけだが土方をしたという経験、これも自分の財産である。





話がおおいにそれたが我が家のドライブウェイに戻る。
僕の土方仕事は、家の仕事の片手間にやる。
お弁当を作り娘と女房を送り出し、朝ごはんの片付けをして天気が良ければ洗濯などもする。
庭の畑に水をやり、鳥の世話をしてお茶など飲んでいると、犬のココが散歩に連れて行けとねだるのでマウンテンバイクで散歩に行き、羊とだだっ広い大地と空に浮かぶ雲を眺めていると時間などすぐに経ってしまう。
お昼を食べて後片付けをして、さて土方仕事というノリだ。
それも夕方になると娘が学校から帰ってきて晩御飯の仕度をという流れになる。
あくまでのんびり、クライストチャーチの復興のように日本で言えば超スローだがニュージーランドで言えばそれなりのペースで僕の土方仕事も進む。
それでも1週間もすると地面は均され枠も組みあがった。
そして鉄筋をいれて準備万端。
コンクリートの会社に電話を入れると翌日の午前という事でパタパタと話がまとまる。
コンクリートを均す道具もレンタルしてきて、いよいよ本工事である。
本工事と言ってもなんてことはない、ミキサー車で運んできたコンクリートをどかっと下ろし、人力でそれを均し表面を仕上げる、それだけのこと。
僕と女房がコンクリートを均し、娘は棒をプスプスと刺し中の空気を抜く、その周りで犬のココがウロウロする。
家族総出の作業で2時間ぐらいでなんとか仕上がった。
前回は隅に娘の手形を入れたので、今回は足型を入れた。
ついでにココの足型も取ろうとしたが、いやがって暴れるので足型は取れなかった。
作業は無事終わったのだが、コンクリートが一輪車一杯分余ってしまった。
さてどうしよう、捨てるのもなんだし、何か使い道はないかなあ、などと考えていたら女房が言った。
「ココの墓石を作ればどう?たぶん、うちらより先に死ぬんだろうし」
「そいつはいいアイデアだ。よし墓石作りだ」
ちょうど良い大きさの入れ物にコンクリートを詰め、嫌がるココを羽交い絞めにして強引に足型を取った。
その下にココと掘り込んで出来上がり。
これはガレージにでも入れておいて、その時がきたら墓石を立ててやろう。
生きとし生ける物すべてにやってくる死。
自分も含め、そこから目を背けずに今ある生を楽しむ事が生きるという事だと思う。

こうしてコンクリート舗装計画第三弾が無事終了した。
これで女房殿もドライブウェイの草むしりから大分解放され、その分のエネルギーは違う所へ使うことができる。
お金は多少かかったが、業者に頼むより大分安くできたはずだ。
もっとも業者がやるほど綺麗な仕上がりにはならなかったが、表面を削ればそこそこきれいになるだろう。自宅のドライブウェイぐらいこれでいいのだ。
やる事リストが一つ減ってホッとしたが、この横に花壇を作りたいというリクエストが入った。
一つ減って一つ増えたわけだが、これもおいおいとやっていく事にしよう。
我が家の改造も、この国らしくのんびりと進む。


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