このところ仏教学的には浄土真宗の思想についてのことが中心となっていたため、無上瑜伽タントラの考察がなおざりになってしまっていましたが、以前から頂いていた質問をまた一つ一つに・・
死の光明の際には、意識の状態だけで認識作用を起こすのかどうか、というものを頂いていましたが、意識は、輪廻の微細な意識に限らずに、必ず身体と対として成り立つものとなるため、生身の身体か、あるいは中有の身体において認識作用を起こすものであると考えられます。
生身の身体において成すものがいわゆる「トゥクタム」となります。
しかし、生身の身体でいつまでもできるものではなく、然るべきに、意成身、つまり、中有の身体、あるいは幻身を立ち上げることになります。
この内、立ち上げを自らの意思においてコントロールできる方が「幻身」となり、生身の身体があっても「別に」幻身を立ち上げることも可能となるのは、相当な高い境地にある聖者でないと不可能なことになります。
また、それらの中有の身体は、有漏の意識によってか、無漏の意識によってかにおいて、汚れたものか、清らかなものかが左右されるものとなります。
「トゥクタム」を行う行者は、生身の身体内において、「死の光明」を利用して、一気に有漏から無漏への意識の浄化の修行を図っている可能性が高く、この間はできる限り静かに見守る必要があります。
やがて、無漏へと向かって意識が安定したところで、幻身を立ち上げてから生身の身体から抜け出ていくことになるのであります。
では、なぜ、死後即座に幻身を立ち上げないのかは、もしも、有漏の意識のままで、すぐに中有の身体となると、非常に不安定なものとなって、自らの意志での次の行き先を安定させることができず、業の力による輪廻への作用が強く働いてしまうことになり、仏道の妨げになるところへと赴く危険性が高くなるからであります。
ですから、なるべく自らの意志で安定させることのできる幻身を立ち上げれるまでは生身の身体に留まって、それから次の赴きへと向かうのだと考えられるであります。
死の光明の際には、意識の状態だけで認識作用を起こすのかどうか、というものを頂いていましたが、意識は、輪廻の微細な意識に限らずに、必ず身体と対として成り立つものとなるため、生身の身体か、あるいは中有の身体において認識作用を起こすものであると考えられます。
生身の身体において成すものがいわゆる「トゥクタム」となります。
しかし、生身の身体でいつまでもできるものではなく、然るべきに、意成身、つまり、中有の身体、あるいは幻身を立ち上げることになります。
この内、立ち上げを自らの意思においてコントロールできる方が「幻身」となり、生身の身体があっても「別に」幻身を立ち上げることも可能となるのは、相当な高い境地にある聖者でないと不可能なことになります。
また、それらの中有の身体は、有漏の意識によってか、無漏の意識によってかにおいて、汚れたものか、清らかなものかが左右されるものとなります。
「トゥクタム」を行う行者は、生身の身体内において、「死の光明」を利用して、一気に有漏から無漏への意識の浄化の修行を図っている可能性が高く、この間はできる限り静かに見守る必要があります。
やがて、無漏へと向かって意識が安定したところで、幻身を立ち上げてから生身の身体から抜け出ていくことになるのであります。
では、なぜ、死後即座に幻身を立ち上げないのかは、もしも、有漏の意識のままで、すぐに中有の身体となると、非常に不安定なものとなって、自らの意志での次の行き先を安定させることができず、業の力による輪廻への作用が強く働いてしまうことになり、仏道の妨げになるところへと赴く危険性が高くなるからであります。
ですから、なるべく自らの意志で安定させることのできる幻身を立ち上げれるまでは生身の身体に留まって、それから次の赴きへと向かうのだと考えられるであります。