一切知とは、我々に顕現している世界のあらゆるモノ・コトを隅々まで知ることではない。
仏陀の認識には何も顕現しておらず、映えるのは澄み渡る空性しかないのである。
一切知とは、衆生一人ひとりの顕現してあるありようを、衆生一人ひとりの認識を通して(借りて)ご覧になられて、その者の心、業のありようを過不足なくにお知りになられることなのである。全ての衆生の個々の心、業を知ることができるから、一切知者と呼ばれるのである。
ただ、法身にて空性のみを現量で了解なさられているだけでは、衆生を救済することは仏陀であってもできない。
仏陀は、福徳資糧により得たる色身による慈悲、方便の力にて、済度をお図りになられるのである。
色身が、衆生一人ひとりの認識してある顕現を、その衆生一人ひとりの認識を借りて、把捉されて、衆生一人ひとりの心、業の状態を知られることで授記(個別具体的対機指導)を行われるのである。
悟りへと向けて、見仏と授記が必須になるのはこのためなのであり、授記は一切知者たる仏陀でしかなせない事業なのである。
仏陀の認識には何も顕現しておらず、映えるのは澄み渡る空性しかないのである。
一切知とは、衆生一人ひとりの顕現してあるありようを、衆生一人ひとりの認識を通して(借りて)ご覧になられて、その者の心、業のありようを過不足なくにお知りになられることなのである。全ての衆生の個々の心、業を知ることができるから、一切知者と呼ばれるのである。
ただ、法身にて空性のみを現量で了解なさられているだけでは、衆生を救済することは仏陀であってもできない。
仏陀は、福徳資糧により得たる色身による慈悲、方便の力にて、済度をお図りになられるのである。
色身が、衆生一人ひとりの認識してある顕現を、その衆生一人ひとりの認識を借りて、把捉されて、衆生一人ひとりの心、業の状態を知られることで授記(個別具体的対機指導)を行われるのである。
悟りへと向けて、見仏と授記が必須になるのはこのためなのであり、授記は一切知者たる仏陀でしかなせない事業なのである。