ラモジョマ氏の論文からタルマリンチェン大師の論書を何度読み直しても分からなかったが、やっと理解ができたことなのではある。
私たち、それぞれの顕現してあるありようは、それぞれ自身の業によって映し出されてあるのである。
だから、仏陀は、その人それぞれの顕現のありようを、それぞれその人の認識を借りてお知りになり、それにより、それぞれの業についてお知りになられるのである。
唯識をしっかり学ばないと中観の最終まで理解ができない。これで顕教がやっと修まることになるチベット仏教の凄さである。
私たち、それぞれの顕現してあるありようは、それぞれ自身の業によって映し出されてあるのである。
だから、仏陀は、その人それぞれの顕現のありようを、それぞれその人の認識を借りてお知りになり、それにより、それぞれの業についてお知りになられるのである。
唯識をしっかり学ばないと中観の最終まで理解ができない。これで顕教がやっと修まることになるチベット仏教の凄さである。