日記

日記

「新しい領解文」問題における思想扇動(思想操作)・運動扇動(行動操作)の意図について

2023年12月31日 | ブログ
林遊さんの「・・何故このような令和の新作領解文騒動が起こったかといへば、浄土真宗の中に「運動論」を持ち込んだ為であった。あらゆる場ですべての人に唱和させようといふ企図は、スローガン(団体や運動の主義・主張を、言い表した語句。標語)によって大衆(門徒)に行動を扇動する左派の運動論である・・」

新しい領解文までの一連の流れへと至る思想(救いのよろこび、念仏者の生き方、私たちのちかい、浄土真宗のみ教え)、そして、「新しい領解文」と、積極的に門信徒・念仏者のあり方を型にはめて、規定し、強制していくようなものを次々に出してきた理由の一つが、このまさに「大衆(門徒)扇動の運動論」であるとも言えるのでしょう。

先にも述べられてあったように「社会参画型の宗教として、その末寺や門徒を搾取しての経済的生存を計る」ということで、「この社会的事業、この社会活動をするから、半強制的に手伝いなさい(動員・奉仕・ボランティア)、寄付しなさい(予算・財源・資金)ということの狙い」もあるのでしょう。

このような思想扇動(思想操作)、運動扇動(行動操作)の意図があるのは、一年前から拙生も指摘してきたとおりである。

陰謀論とか、妄想論とか、まあ、その類いでの批判も頂いてきたが、概ねの目的は「思想扇動(思想操作)、運動扇動(行動操作)」ということであるのは確かなのであろう。

その背景にある思想や潮流等は、時代時代においてもちろん変わるもので(戦争運動が平和運動に変わったりとか)あるが、戦時教学と同じ轍を踏んでいると言えるのは、やはり間違いないことであるのでしょう。

もちろん、このような「思想扇動(思想操作)、運動扇動(行動操作)、社会運動」と、親鸞思想、浄土真宗教学とは、本来、何ら関わりのないことである。

親鸞思想、浄土真宗においては、「浄土信仰者、念仏者の正しいあり方として、弥陀本願にまかせるか、まかせないか、念仏申すか、申さないか、ただ、それだけが重要」となるのであります。

しかし、ある方から、皮肉気味に「この問題に一貫して真剣に真正面から反対し、実際に、声を上げ続けて、また、わざわざ本山にまで乗り込むなどして行動したのはあなたぐらいですね」と言われた。

まあ、Facebookの考える会や、有志の会も、当初は頑張ってはいましたが、結局、門主批判が出始め、門主の異安心が問題視され出してきたら、考える会・有志の会もフェイドアウトして、ポシャっていってしまったわけです・・

法義と真摯に向き合って、この問題について考えている者は、もう本当に少ない。つまり、真に信心ある者も少ないというわけです・・

これが現実なのでもあります。親鸞聖人の落胆のため息が聞こえてきそうであります。

・・

「仏恩報謝のお念仏」か、、

信心の社会性のお念仏

還相のお念仏

どこか仏恩報謝に念仏を合わせてくる、この押しつけがましさには、信心に報恩謝徳を内包させ、宗門、教団に奉仕、貢献しなさいとの意図もあるように感じるのは、やはり穿った見方になるのであろうか。

社会活動、社会貢献活動、ボランティア、奉仕活動の奨励と信心の社会性と念仏を合わせる意図も窺えるわけではあるが、そこまで、念仏者、門信徒のあり方を型にはめ、強制的に規定したいのには、やはり、何か理由があるのだろう。

ぶっちゃけ、信心に社会活動、社会貢献活動、ボランティア、奉仕活動は必要ないというよりも、本来は関係がないのである。

信心に関係があるのは、ただ、念仏申すか、申さないか、それだけのことである。

仏恩報謝も信心には必要ないし、関係がない。

あくまでも仏恩報謝は、信心獲得、信心決定後における獲信者の内証における自然発生的となる心境のものであり、まだ、信心獲得、信心決定していない者においては、もともと必要のない、関係のないことなのである。

念仏者の正しいあり方としては、弥陀本願にまかせるか、まかせないか、念仏申すか、申さないか、ただ、それだけが重要となるのである。

恩着せがましくにも、仏恩報謝せよ、仏恩報謝の念仏をせよと喧伝し、更には、あれしろ、これしろ、こうありなさい、と厚かましくに申し付けられる筋合いなども、本来はないはずなのである。

この点でも新しい領解文へと至る一連の流れの背景にある思想的なもの(教義とも言えないもの)は、そもそもから間違っていると言えるわけである。

おまかせし はからい捨てよが 弥陀本願 あれこれせよとは 領解しかねる

なのである。

結局は、一連の思想(教義とも呼べないもの)は、感謝して、社会活動、社会貢献活動、ボランティア、奉仕活動をしないと往生できないよと言っていると捉えることもできるわけです。

万人が万人、当然に色々と感謝できる境涯にあるわけではなく、また、万人が万人、社会活動、社会貢献活動、ボランティア、奉仕活動できるような余裕があるわけではないのですから、そもそもに親鸞聖人の念仏のお考えからは外れていると思われるわけであります。

もともと雑善、雑毒の善において、何か信心、往生へ向けて期待させるものがあると捉えられかねない時点でも、一連の思想は完全にアウトであるわけです。


最新の画像もっと見る