日記

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如来の慈悲の平等性とは

2024年07月25日 | ブログ
如来の認識には、空性しか映えないとなれば、衆生救済、慈悲の事業は成せないことになります。

空性しか映えない如来の認識に、どのようにして輪廻にある衆生のありようが認識されるのか?

これが福徳資糧により獲得したる方便の力、つまり、色身の力によるものであり、報身、応身において、ご覧にならない仕方にてご覧になられるあり方、離戯論のみをご覧になられるあり方にて、衆生の様子(個々人の心、認識、業のありよう)を量られるわけなのであります。

特に応身であれば、私たちと同様に六識を用いてご認識なさられることもあるのであります。

無分別智に対する誤解は、一切空を認識される如来の智を、一切空で、皆同じ、平等だと勘違いすることによる間違いなわけであります。

平たく言えば、如来の現量では、全ては空性と認識されているだけで、世俗の縁起、因縁、輪廻のありようがそれで何か解決されるわけでは全くないのであります。

無分別だから、一切空で皆平等、そして、平等に救って下さるのが如来であるのだから、皆救われると勘違いしているだけで、それなら、もともと全ては空性であるわけでもあるのだから、既に最初から全てが救われていないとおかしいことにもなるわけです。

如来の慈悲の平等性とは、無分別智によりながらにも、衆生のありようを過不足なく、忖度なく、六道にある一人ひとりの輪廻、業、必要な資糧を平等に、地獄の衆生だからとか、天界の天人だからと差別することはなくに量られるということを言うのであります。

輪廻、業、資糧の違いを無視して、無条件に全ての者を救うわけではないのであります。

疑心往生の問題も、阿弥陀如来が、衆生個々人におけるそれらの違いを無視して、無条件にも救済して下さる、あたかもスーパーヒーローのような存在、岡林さんの言葉を借りれば、全知全能神と勘違いしていることによる問題であるわけです。

もちろん、阿弥陀如来がそのようなスーパーヒーロー、全知全能神のような力があるならば、法蔵菩薩から阿弥陀如来となった際に、本願の力にて、全ての衆生は救われて、輪廻する衆生も皆無となっていなければならないことになりますが、現実は全くそうでないことからも明らかなのであります。

こういうわけで、(浄土真宗において)疑心があっても阿弥陀如来が救って下さる、疑心があっても本願の力で救われるなどとは、とても言えないわけなのであります。


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