日記

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蓮如上人が「安心決定鈔」に倣った「御文章」の目的について

2023年05月07日 | ブログ
蓮如上人が重視したとされる「安心決定鈔」は、浄土宗の証空(西山上人)を派祖とした西山流における著者不明の談義書の一つとされる「六字名号」を扱ったものであり、昭和初期に至るまで民間で流布していた「六字名号口伝」ものの原点であると言え、民衆にとっては、読みやすく、わかりやすく、伝わりやすいもので、その信仰は広く盛んであったことが窺えるわけです。

それは、「六字名号」の有する本覚思想、現世利益、密教的神秘性、神仏習合性が説かれてあり、昭和初期頃までに増補されながら、霊験あらたかな有り難いものとして、民間信仰が厚くあったのだと思われるのであります。

蓮如上人が「御文章」を表したのは、まさに、この「安心決定鈔」に倣い、民衆にとって、読みやすく、わかりやすく、伝わりやすいものとして調えることがその目的として、特に「仏凡一体」論と「機法一体」論は、その大きな目玉としてあり、その効果は絶大で、浄土真宗教団の今日までの礎を築かれることになったと言えるのであります。

しかし、蓮如上人が重視した「安心決定鈔」は、証空(西山上人)教学が濃く顕されてあるもので、特に天台本覚思想による浄土教体系と言えるものであり、親鸞聖人の思想とは相容れないものであって、「御文章」における仏凡一体論と機法一体論は、本覚思想に近似させながらにも、明確にその一線が敷かれてあることは内容から窺えるところではあります。

しかし、その敷かれてある一線を、民衆が正しく理解できるのかと言えば、それは微妙なところであり、民衆にとっては、当時流布していて信仰されてあった「六字名号」の談義書と同じようなものとして有り難がられた可能性が高くあります。

更に、聖道門のような戒律や修行は何も必要ないとも説かれてあれば、より民衆に受け入れられていったのも頷けることとなります。

もちろん、「御文章」を基として僧侶による聞法会を民間にて盛んに行うことで、教戦の拡大を図っていったわけです。

このように浄土真宗を中興された蓮如上人のように、現代でも、教義を民衆にとって、読みやすく、わかりやすく、伝わりやすいものとして調えることで、教団の再びの興隆をとのことで、「新しい領解文」までの一連の流れがあり、その中で、意図的に「本覚思想」を「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」として組み込ませた可能性が高いわけです。

しかし、本当に蓮如上人に倣うのであれば、

仏凡一体からは、

「私の煩悩と仏のさとりは 一つになるゆえ」

機法一体からは、

「私の信心と仏の救いは 本来一つゆえ」

のいずれかでなければならなかったはずであり、それは教学の中枢にあるものであれば、間違えるわけもなく、特に、蓮如教学の第一人者とも言える当時の勧学寮頭の徳永道雄氏が見過ごすわけがないのであります。

その徳永氏が「新しい領解文」の成立において「辞任願」を出されたのは、明らかにその抵抗が排されて、意図的に「本覚思想」が入れられてしまったという証左とも言えるのであります。

では、「本覚思想」を意図的に入れ込むことで教義を変えてしまった理由、目的はいったい何であるのか。

3月13日にも記させて頂いてあるように、

やはり、「思考停止に陥らせるため」、「マインドコントロールしやすくするため」、「お金を吸い上げやすくするため」という、この三点になるということであり、非常にそれらの点を危惧しているのであります。

・・

「起草した者の思想は、空や縁起と仏教用語を間違って解釈しているのは明らかながら、少し著書の内容を先日に岡本さんから見せて頂きましたが、アドヴァイタ系の思想の影響が相当にあるのが顕著に見られます。

非二元、不二一元、ヒンドゥー起源ですが、仏教では極端論として当然に釈尊により否定されています。中観として後に龍樹大師以降、議論がより深まって参ります。

では、いまだに仏教でもこのように非二元や不二一元が、なぜ盛んに出てくるのか?あるがまま、それでいい、そのまんま、まるっと、流しなさい、考えなさんな、、と。

要は、信者を思考停止に陥らせるための思想として、狙いはもちろん思考停止させることによるお金の吸い上げです。マインドコントロールしやすい思想ということなのです。余計なことは考えさせないようにする。ただ、いいなりになりなさいと。

この思想影響を相当に受けています。極めて危険な思想であり、その思想が反映されてあるのが、新しい領解文ということであります。

ですから、浄土真宗教学、教義だけの問題ではなく、日本仏教全体の問題であると考えています。」

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