日記

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総持寺(能登・祖院)と加賀藩・前田家と南朝について

2024年02月16日 | ブログ
総持寺を庇護した加賀藩、前田家は、もちろん、南朝である。そのため、南朝勅願所である総持寺を厚く庇護するのは当然であったわけなのである。

前田家は、菅原道真を祖とする美作菅一族の出自であり、美作菅党は、後醍醐帝に従った一族で、室町時代、山名教清によって美作に入ることになった小倉宮良泰の子、尊義親王、尊秀親王に仕えることにもなり、以後、美作後南朝を支えることになるのである。

その菅党から、やがて尾張へと移り、織田信長の家臣となったのが、前田利家である。

前田利家は、豊臣政権の五大老にあり、当然に、利家の子、利長は、豊臣秀頼の後見と目されていたものの、利家の死後は徳川家康に協力することになり、関ヶ原の戦いでは、当然に南朝勢力である東軍に味方することになるのである。

また、利長の次に藩主となった利常が、家光に警戒された背景には、美作後南朝があった可能性もあり、利常が後水尾天皇の美作後南朝・高仁天皇への譲位に理解を示していたとも考えられています。

しかし、高仁天皇の後見役であった津山藩主、森忠政は幕府によりに毒殺され、家光が30万の兵を率いて上洛、高仁天皇廃位、明正天皇即位を推し進めたのは、前田利常や松平頼宣、松平忠輝らによる反乱を防ぐための威圧であったからであろうと考えられるわけであります。

その前田利常と総持寺の関係から、総持寺と美作後南朝との関連も何らか必ずあると思われるのである。

余談ではあるが、関ヶ原の戦いの前まで、美作を治めていた宇喜多秀家は、利家と同じ豊臣政権五大老の一人で、そのまま豊臣秀頼の後見役として、関ヶ原の戦いでは西軍として戦ったため、領地は没収、捕えられるものの、前田家による嘆願にて命は助けられることになります。

この背景にも美作後南朝を庇護していた宇喜多秀家への南朝方同士としての同情があったからではないかと考えられるのであります。

また、利常は、幕府より松平氏、源氏姓を名乗ることを許されたが、それを断っている。やはり、菅原姓にこだわり続けたのは、南朝を意識していてのことだと思われるのである。


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