曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)については、当然に「往生論註」を詳しくあたらなければならないが、仏の二身(法身・色身)、三身(応身・報身・法身)、四身(応身・報身・智法身・自性法身)において、この「方便法身」の考え方は、四身の「智法身」を論拠にしているように思われるのである。
往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。
そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。
ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。
この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。
つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。
仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。
これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。
しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。
要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。
つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。
また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。
いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。
往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。
そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。
ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。
この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。
つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。
仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。
これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。
しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。
要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。
つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。
また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。
いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。