インド・チベット仏教における通仏教的な仏性論と見仏論から、日本の仏教(主には鎌倉仏教)を精査し直せば、日本仏教は八割方、瓦解してしまうことになるというのは、日本の仏教における教義の誤謬の要因の大元が、実は同じ考え方が根っこにあるからであります。
その根っこには、実は先日に少し先に述べてある(Facebookの方にて)カルトの問題(教義<オルグ・集金)とも同じであり、何かと言うと、巧妙な論理的すり替えによる「手段の目的化」があるのです。
本来、目的(悟り・涅槃)へと至ることが第一義であるにもかかわらず、そのための手段(方便)の方が第一義になってしまうというものであります。
挙句の果てには、手段(方便)そのものが、悟り・涅槃・仏性・見仏として、第一義の目的となってしまったのです。
そのため、本来は、目的(悟り)へと向けた手段・方法(六波羅蜜)の一つ、それもほんの些末な過程としての一つに過ぎない修行行為が、まさか、仏性、見仏そのものとなってしまうという、おかしなことになってしまったのです。
要は、例えば、本来は、受験生の場合であれば、大学合格が目的であるのに、その過程の勉強の行為が、やがて目的化して、勉強に頑張っているのを、周りもとにかく第一義的に評価して称賛する、そうすると、合格していなくても、とにかく頑張っていることが評価されるため、受験生はとにかく手段・方法に取り組むことを第一義として頑張ることを頑張るというおかしなことになり、やがてはそれに疲弊して、結局は目的も見失ってしまっていくという感じであります。
もちろん、結果として合格すれば、それはそれで良いのですが、とにかく、日本人の気質においては、手段・方法をとにかく頑張っていれば評価されるから、それをより頑張る、一生懸命に取り組んでいることが評価されるから、それをより頑張る、とにかく結果云々ではなく、手段・方法にガムシャラにでも頑張れば良いというような、非効率な構造が根底にあり、それが仏教の修行についても同じようなことが言い得るのではないだろうかと考えます。
少し話が逸れましたが、もちろん、末法思想という当時の時代背景も考慮しなければならないのですが、「手段の目的化」を象徴するような論理的すり替えとして、最も有名であるのが、曇鸞の指月喩です。
指月の指(手段)は月(目的)の光に照らされてこその指月の指であり得ており、その照らされてある指は、仏のはたらきとしての「方便法身」であるとして、悟り、真理、仏性と同体として扱い得るという考え方であります。
しかし、これなら指し示す指(方便)だけでなく、月(悟り)の光が照らされてあるもの全てが、「方便法身」であるとも言い得てしまうわけで、つまり、悟りを示す全ての方便、手段が、悟り、真理、仏性そのものと同体となってしまってもおかしくないということになります。
この論理で展開されてあるのが、実は鎌倉仏教であると言えるのであります。
ですから、鎌倉仏教においては、方便・手段が、仏性、見仏とイコールとなってしまうという誤謬をそれぞれに犯してしまっていると言い得るところがあるのであります。それも手段・方法のほんの一部だけを・・
また、本覚思想も、この「方便法身」を根拠としたような同じ誤った論理にて成り立っていると言えるのであります。
その根っこには、実は先日に少し先に述べてある(Facebookの方にて)カルトの問題(教義<オルグ・集金)とも同じであり、何かと言うと、巧妙な論理的すり替えによる「手段の目的化」があるのです。
本来、目的(悟り・涅槃)へと至ることが第一義であるにもかかわらず、そのための手段(方便)の方が第一義になってしまうというものであります。
挙句の果てには、手段(方便)そのものが、悟り・涅槃・仏性・見仏として、第一義の目的となってしまったのです。
そのため、本来は、目的(悟り)へと向けた手段・方法(六波羅蜜)の一つ、それもほんの些末な過程としての一つに過ぎない修行行為が、まさか、仏性、見仏そのものとなってしまうという、おかしなことになってしまったのです。
要は、例えば、本来は、受験生の場合であれば、大学合格が目的であるのに、その過程の勉強の行為が、やがて目的化して、勉強に頑張っているのを、周りもとにかく第一義的に評価して称賛する、そうすると、合格していなくても、とにかく頑張っていることが評価されるため、受験生はとにかく手段・方法に取り組むことを第一義として頑張ることを頑張るというおかしなことになり、やがてはそれに疲弊して、結局は目的も見失ってしまっていくという感じであります。
もちろん、結果として合格すれば、それはそれで良いのですが、とにかく、日本人の気質においては、手段・方法をとにかく頑張っていれば評価されるから、それをより頑張る、一生懸命に取り組んでいることが評価されるから、それをより頑張る、とにかく結果云々ではなく、手段・方法にガムシャラにでも頑張れば良いというような、非効率な構造が根底にあり、それが仏教の修行についても同じようなことが言い得るのではないだろうかと考えます。
少し話が逸れましたが、もちろん、末法思想という当時の時代背景も考慮しなければならないのですが、「手段の目的化」を象徴するような論理的すり替えとして、最も有名であるのが、曇鸞の指月喩です。
指月の指(手段)は月(目的)の光に照らされてこその指月の指であり得ており、その照らされてある指は、仏のはたらきとしての「方便法身」であるとして、悟り、真理、仏性と同体として扱い得るという考え方であります。
しかし、これなら指し示す指(方便)だけでなく、月(悟り)の光が照らされてあるもの全てが、「方便法身」であるとも言い得てしまうわけで、つまり、悟りを示す全ての方便、手段が、悟り、真理、仏性そのものと同体となってしまってもおかしくないということになります。
この論理で展開されてあるのが、実は鎌倉仏教であると言えるのであります。
ですから、鎌倉仏教においては、方便・手段が、仏性、見仏とイコールとなってしまうという誤謬をそれぞれに犯してしまっていると言い得るところがあるのであります。それも手段・方法のほんの一部だけを・・
また、本覚思想も、この「方便法身」を根拠としたような同じ誤った論理にて成り立っていると言えるのであります。