日記

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新旧領解文をどのように見直せばよいのか

2024年03月08日 | ブログ
門主は、石泉学派が好みであり、念仏者には、通仏教の功徳行、善徳行もやはり必要だとの感覚は、もちろん十分に理解できるのであります。

功徳行、善徳行を、雑修、雑行、自力だと一切否定する側が問題だと思うのも、まあ、普通であればそう思うわけでもあります。仏教、世間一般の感覚から見ても。

仏教の基本的なあり方、基礎となる土台を無視して、「他力」、「信心」一辺倒により過ぎたのも、そうだとも思うのである。

そのあり方を見直すべくに「報恩」、「報謝」としての功徳行、善徳行を勧めるとの方向性へとなり、それをより明確化していきたい、修正したいとの門主の意思も窺えるわけですが、何分にもそれを任せた者が、あまりにも無知であったのが大誤算であったと思うのであります。

仏教も浄土真宗も、まあ分かっていないというお粗末さと、功名心による高慢さ、、

その現れが「新しい領解文」となり、一連の騒動となるわけであります。

もちろん、他にも色々と懸念すべき問題が控えてあると別にも認識していますが、、まあ、それはおいておくとして、、

では、どうすれば良かったのか、今後、どうすれば良いのかとなりますが、仏教の基本、土台となる功徳行、善徳行、慈悲行は、雑修雑行には当たらないものとして、特に、七支供養、発菩提心受持、十善(勧めとするか、戒とするかは要議論になりますが)を復活させ、その上で、「信心」のあり方について議論するようにすればとは思うのである。

まあ、まずは新旧領解文の完全撤廃である。

これを踏まえてから、仏教の基本は基本として、それは不可侵なものとした上で、教義の中枢となる「名号」の利益、功徳を賜わる「信心」のあり方を議論し、その内実を改めて表出するカタチを領解文として出し、それは、あくまでも個々人の内証へ向けて、指針、参考となるものとして、唱和などして思想強制するものや、権威あるものとしないように気をつけないといけないでしょう。

あとは、「信心」決定のみに「成仏」までの力をもたせるのは、やはり無理があり過ぎる、やり過ぎであると思うのであります。

一先ずは、「往生」を確定、確約させるものとするべきではないかと。

往生先は、もちろん、法性法身真実浄土、一如宝海、一如法界としても。

まあ、今のところは、このように考えるわけであります。


浄土真宗の「信心」の内実について

2024年03月08日 | ブログ
このリンクのポストに絡めて、

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親鸞聖人以降の者たちにおいて「信心」の内実が甘く見積もられてしまうようになった弊害なのでしょうかね、と。本願寺派の方ではありませんが。

まあ、そうなのだとは思います。それが◯◯上人や誰彼のせいだともおっしゃる方もあるわけですが、これまで、親鸞聖人の浄土論、往生論、成仏論の特異性を理解した上から「信心」の内実について深く検討してこなかった可能性が高いのではないかとも思うのであります。

本来、成仏に必要となる膨大な智慧資糧と福徳資糧の代替が、浄土真宗においては「信心」決定一つに集約されることになるわけですが、その根拠が、新旧領解文を理解する程度、唱和、解説を聴く程度で済むとするならば、まあ、こんな簡単なことはないわけです。

そういう意味では本当に易行中の易行と言い得るのかもしれませんが、根拠があまりにも薄すぎる、そんなの詐欺ではないか、ともなるわけです。

ましてや、それにアレヤ、コレヤと仏教的にも親鸞思想的にも疑義があるとか、もちろん論外であるわけです。

拙生としては、獲信の本質を探るのがこの考究の目的でもありましたが、これを期に、真宗各派全般においても、「信心」の内実について深く宗祖のお考えから省みていく必要性があるのではないかとも思うのであります。

まあ、怪我の功名と前向きに捉えると良いのではないかと。

・・

これは・・従来の領解文もそうだが、改悔批判で唱和させて、与奪者が解説を行い、正しい領解を確認するということの根拠、論拠が、新旧ともに疑わしいものであると宣言してしまっているようなことではないだろうか。

領解の精査は、直結して信心獲得、信心決定の内実の精査へと向かうものでもあり、教義における根本中枢、核心を扱うものである。

それがいい加減なもの(新しい領解文はもちろん論外ではあるが)を根拠、論拠としていたとなれば、とんでもないことである。

もしも、従来の領解文に問題があるから、新しい領解文が必要となったとしての制定動機であったのであれば、信心の核心を扱い、教義の中枢となるものになるのであるのだから、議論を重ねた上でより慎重かつ丁寧に進めるべきであっただろう。

それが、仏教としても、浄土真宗としても間違いだらけのものでの挙句の果てがアレだったわけなのである・・お粗末すぎてなんともである・・

いずれにしても、以前より拙生が述べてあるように「信心」を甘く見積もり過ぎている弊害ではないだろうかとも思うのである。

信心決定は、阿弥陀如来の法性法身、浄土真実、宝海、法界への往生を決定するものであり、往生と同時に阿弥陀如来と一如、一味となりて、如来と同等の法性法身と方便法身を獲得する(成仏する)根拠となる事態なのである。

つまり、法身獲得に必要となる空性の現量了解に至れるほどの智慧資糧の膨大な集積と、色身獲得に必要となる三阿僧祇劫最低でも必要となるほどの福徳資糧の膨大な集積、それらの代替となる力が、「信心」決定が有してあるというわけなのである。

そのため、「信心」の内実というものは、それらの膨大な資糧に匹敵するほどであるはずであり、それを示さなければならない必要性が領解においていることになるわけであります。

新旧いずれにしても領解文の内容において、その根拠、論拠となるものが、当然に表れていなければならないのであり、果たしてそれらに耐えうるほどの根拠、論拠であるのかどうかについても、十分に内容を精査しなければならないのであります。

それが、以前に某雑誌で書かれていたように、鉛筆なめなめして作られた程度であったとすれば、本当にとんでもないものであるというわけなのであります。


「七支供養」(七支清浄行)について

2024年03月08日 | ブログ
「帰依・懺悔(滅罪)・受戒・善根功徳(追善)」は、チベット仏教ではどのようになるのかと申せば、要は「七支供養」(七支清浄行)として調えることになるわけであります。

それは、華厳経における普賢行願讃の内容であり、

「帰依、礼拝、懺悔、供養、随喜、勧請、廻向」として調えられるもので、「勧請を発菩提心、あるいは菩提心の保持」とする場合もありますが、この七つの供養を行うことによって、福徳資糧となる功徳も積むことができることになるのであります。

ですから、七支供養を勤めて、日常においては、五戒、もしくは十善戒に努めること、これが往生、引導を頂くためにおいても、必要最低限の条件であると言い得るわけでもあります。

七支供養は、1分~2分ほどあればできるお勤めです。

もちろん、難行苦行などではなく、誰もが簡単にできる供養、功徳であるわけです。

この応用バージョンで、諸尊、真言、供養対象の広がり等が加わって、より複雑となって、長くなるものが、密教における成就法であるわけですが、ベースはやはりこの七支供養が基本にあるわけです。

仏教徒であるならば、なりよりも「七支供養」が基本中の基本、必要最低限の供養となるわけですが、それが日本仏教では基本として定着せずに、むしろ省略されてしまう傾向となったのが、そもそも残念なことであったわけなのでもあります。