門主は、石泉学派が好みであり、念仏者には、通仏教の功徳行、善徳行もやはり必要だとの感覚は、もちろん十分に理解できるのであります。
功徳行、善徳行を、雑修、雑行、自力だと一切否定する側が問題だと思うのも、まあ、普通であればそう思うわけでもあります。仏教、世間一般の感覚から見ても。
仏教の基本的なあり方、基礎となる土台を無視して、「他力」、「信心」一辺倒により過ぎたのも、そうだとも思うのである。
そのあり方を見直すべくに「報恩」、「報謝」としての功徳行、善徳行を勧めるとの方向性へとなり、それをより明確化していきたい、修正したいとの門主の意思も窺えるわけですが、何分にもそれを任せた者が、あまりにも無知であったのが大誤算であったと思うのであります。
仏教も浄土真宗も、まあ分かっていないというお粗末さと、功名心による高慢さ、、
その現れが「新しい領解文」となり、一連の騒動となるわけであります。
もちろん、他にも色々と懸念すべき問題が控えてあると別にも認識していますが、、まあ、それはおいておくとして、、
では、どうすれば良かったのか、今後、どうすれば良いのかとなりますが、仏教の基本、土台となる功徳行、善徳行、慈悲行は、雑修雑行には当たらないものとして、特に、七支供養、発菩提心受持、十善(勧めとするか、戒とするかは要議論になりますが)を復活させ、その上で、「信心」のあり方について議論するようにすればとは思うのである。
まあ、まずは新旧領解文の完全撤廃である。
これを踏まえてから、仏教の基本は基本として、それは不可侵なものとした上で、教義の中枢となる「名号」の利益、功徳を賜わる「信心」のあり方を議論し、その内実を改めて表出するカタチを領解文として出し、それは、あくまでも個々人の内証へ向けて、指針、参考となるものとして、唱和などして思想強制するものや、権威あるものとしないように気をつけないといけないでしょう。
あとは、「信心」決定のみに「成仏」までの力をもたせるのは、やはり無理があり過ぎる、やり過ぎであると思うのであります。
一先ずは、「往生」を確定、確約させるものとするべきではないかと。
往生先は、もちろん、法性法身真実浄土、一如宝海、一如法界としても。
まあ、今のところは、このように考えるわけであります。
功徳行、善徳行を、雑修、雑行、自力だと一切否定する側が問題だと思うのも、まあ、普通であればそう思うわけでもあります。仏教、世間一般の感覚から見ても。
仏教の基本的なあり方、基礎となる土台を無視して、「他力」、「信心」一辺倒により過ぎたのも、そうだとも思うのである。
そのあり方を見直すべくに「報恩」、「報謝」としての功徳行、善徳行を勧めるとの方向性へとなり、それをより明確化していきたい、修正したいとの門主の意思も窺えるわけですが、何分にもそれを任せた者が、あまりにも無知であったのが大誤算であったと思うのであります。
仏教も浄土真宗も、まあ分かっていないというお粗末さと、功名心による高慢さ、、
その現れが「新しい領解文」となり、一連の騒動となるわけであります。
もちろん、他にも色々と懸念すべき問題が控えてあると別にも認識していますが、、まあ、それはおいておくとして、、
では、どうすれば良かったのか、今後、どうすれば良いのかとなりますが、仏教の基本、土台となる功徳行、善徳行、慈悲行は、雑修雑行には当たらないものとして、特に、七支供養、発菩提心受持、十善(勧めとするか、戒とするかは要議論になりますが)を復活させ、その上で、「信心」のあり方について議論するようにすればとは思うのである。
まあ、まずは新旧領解文の完全撤廃である。
これを踏まえてから、仏教の基本は基本として、それは不可侵なものとした上で、教義の中枢となる「名号」の利益、功徳を賜わる「信心」のあり方を議論し、その内実を改めて表出するカタチを領解文として出し、それは、あくまでも個々人の内証へ向けて、指針、参考となるものとして、唱和などして思想強制するものや、権威あるものとしないように気をつけないといけないでしょう。
あとは、「信心」決定のみに「成仏」までの力をもたせるのは、やはり無理があり過ぎる、やり過ぎであると思うのであります。
一先ずは、「往生」を確定、確約させるものとするべきではないかと。
往生先は、もちろん、法性法身真実浄土、一如宝海、一如法界としても。
まあ、今のところは、このように考えるわけであります。