日記

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「浄土門」についての一考

2024年03月03日 | ブログ
浄土宗や浄土真宗の教義とは別に、貴兄が考える「浄土門」とはどのようなものかと問われていたことについて、春彼岸の法話として、改めてまとめてみることにした。

基本的に、浄土門の教えとは、極楽往生を目指すもので、往生により、阿弥陀佛との見仏、阿弥陀佛からの授記を頂くことで、浄土での修習によって悟りに至れる(成仏できる)ように調えるためのものと考えるのであります。

その往生先については、報身報土だけではなく、応身応土など、見仏身、浄土地にも、往生者に応じての相違があると考えています。

ただ、往生先を阿弥陀佛の(法性)法身、法身そのものを含めるかとなれば、それは想定していません。(名号の利益功徳に即座の成仏までを含めるのかどうかもまだ保留としておきます。)

また、極楽の報土にせよ、応土にせよ、極楽の六道(地獄もあり)にせよ、いずれにしても往生のためには、当然に条件が必要であると考えています。

その条件には、称名、念仏だけではなく、三帰依、善行(善根・功徳)は欠かせないと考えています。

もちろん、善行は、聖道自力におけるような難行苦行ではなく、誰もが少し気をつけるだけで、無理なく簡単、平等にできることで、少なくとも五戒、できれば十善戒の実践程度は必要条件と考えるわけであります。

つまり、三帰依、五戒(十善戒)による功徳、称名・念仏、この三要素が必要だと思うのであります。

では、功徳は良いとして、智慧(空性)の修習は必要ないのか、となりますが、残念ながら、智慧の修習だけは誰もが簡単、平等にできるわけではなく、どうしても自力での難行苦行が必要となるようなものであります。(智慧の修習には、禅定における三昧の力がどうしても必要となります。止観の実践は悟りへと向けた完全な自力的なものとなるのであります。そのため、誰もが簡単にできるというものではなく、浄土門にはそぐわないものと言えるわけであります。)

もちろん、智慧は悟りへの条件として、先では必要ながら、往生の条件としては必要でないものと考えるのであります。

仏教の基本的なあり方について共通して仏が述べてある七仏通誡偈も「諸悪莫作 衆善奉行」とあるように智慧の修習については積極的には示されていないことからも、それが窺えるのであります。

やはり、智慧の修習は難しく、容易でなく、修習のための条件の調うところ(浄土)にて確実に進めることが肝要になると考えられるわけです。

基本的には、阿弥陀経にもあるように善根、功徳は往生の必要条件となりますが、智慧は必要条件ではないと考えるのであります。

現在のところはこんな感じであります。