日記

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親鸞思想の浄土論、往生論、成仏論と仏性論

2024年03月14日 | ブログ
親鸞思想の浄土論、往生論、成仏論が、通仏教とは全く異なる性質、論理であることを理解していないために、助正論や報恩行、功徳行などの必要性についての議論がいつまでも起こるわけであります。

時流や社会、世界の潮流に合わせてとか、色々と理由をグダグダと述べ立てても、それは、理由、根拠には全くならないのであります。

冒涜とまではならなくても、宗祖の思想、教義への疑義を呈していることになるわけであります。

仏性論については、そもそも悟りへと向けた自力的あり方の根拠となる仏性の存在は否定されるものであり、あくまでも成仏は、法性法身阿弥陀如来との一如、一味において成されるものであるため、自分の側における仏性があるのかないのかは、一切関係がないことで、仏性論は、否定的な無記に近い立場となるのであります。

もちろん、輪廻にあり、煩悩、無明に迷い苦しむ現実がある以上は、悟りの状態にあるわけもなく、「煩悩と悟りは本来一つ」などとも言えるわけなど全くないのであります。

百歩譲ったとして、「私の煩悩と業は、仏の力により浄化され、やがて私は仏と一如になるゆえ」ならば、十分に認められる余地はあったと思うのであります。

某論文のように、「議論の余地がない」などと述べるなど、浄土真宗も仏教も全く理解していない証左であるわけなのであります。


石泉学派の弘願助正についての補足

2024年03月14日 | ブログ
石泉学派の弘願助正については、随分と前にも考察しているが、称名以外の五念門を往生への助正業と成すのを、その基本としつつ、五念門以外に、報恩行の活動も、その助正業に含めるのか否かが問われてくるところになるわけであります。

つまり、通仏教の功徳行とその性質が同じとなるわけで、もちろん、往生へ向けては善根功徳は欠かせないものであるため、功徳+称名念仏は、往生の基本要素であるわけです。

門主が勧めようとしているのは、要は浄土真宗も、通仏教に準じて、名号+功徳でいきましょう、というわけです。

但し、功徳+称名念仏による「往生」と、浄土真宗の「往生」とは、そもそも同じではなく、中身も性質も異なるものであります。

そのため、同じように、功徳+称名念仏では、浄土真宗の「往生」の要件にはならないのであります。

流れ的には、

浄土往生→見仏・授記→菩提道次第→福智二資糧円満→悟り・成仏

ではなく、

浄土真実(一如宝海・法界)往生→阿弥陀如来と一如・一味→二種法身獲得→成仏

となるため、往生の質そのものが全く異なるのであります。

この浄土真実への往生のあり方、要件を示されたのが親鸞聖人であるわけです。それをただシンプルに、

名号+信心

に集約されたわけです。余計なる雑行、雑修を一切排しての信心決定、信心獲得の一つへと親鸞聖人は向かわれたわけです。

それが正しいか間違っているかは別として、そのような論理にあるということで、今さらに通仏教、通浄土門の往生論に依るとか、合わせるとかは、もともと、そのプロセス、論理が全く異なるため、土台無理な話であるわけです。

また、功徳行を、報恩行と銘打って、または、助正業として、ボランティアや奉仕活動、慈善事業、寄附事業を勧めるとしても、誰もが平等にできる実践ではないことを勧めるのは、仏教としても、浄土門としても、それは彌陀本願、釈尊の勧めにも反するものであるため、当然に無理があるわけです。

ましてや、彌陀が、報恩しなさい、報謝しなさい、それを行動で、態度で示しなさいなどともおっしゃられているわけがないのであります。報恩行を助正業とするのも、浄土真宗的に正確には間違いとなるのであります。

通仏教に近づきたい、通仏教と仲良くしたい、話を合わせたいのであれば、浄土真宗を辞めてから、十善行、無財の七施や、六波羅蜜などの功徳行の実践を勧め、励めば良いのであります。それだけのことです。