親鸞思想の浄土論、往生論、成仏論が、通仏教とは全く異なる性質、論理であることを理解していないために、助正論や報恩行、功徳行などの必要性についての議論がいつまでも起こるわけであります。
時流や社会、世界の潮流に合わせてとか、色々と理由をグダグダと述べ立てても、それは、理由、根拠には全くならないのであります。
冒涜とまではならなくても、宗祖の思想、教義への疑義を呈していることになるわけであります。
仏性論については、そもそも悟りへと向けた自力的あり方の根拠となる仏性の存在は否定されるものであり、あくまでも成仏は、法性法身阿弥陀如来との一如、一味において成されるものであるため、自分の側における仏性があるのかないのかは、一切関係がないことで、仏性論は、否定的な無記に近い立場となるのであります。
もちろん、輪廻にあり、煩悩、無明に迷い苦しむ現実がある以上は、悟りの状態にあるわけもなく、「煩悩と悟りは本来一つ」などとも言えるわけなど全くないのであります。
百歩譲ったとして、「私の煩悩と業は、仏の力により浄化され、やがて私は仏と一如になるゆえ」ならば、十分に認められる余地はあったと思うのであります。
某論文のように、「議論の余地がない」などと述べるなど、浄土真宗も仏教も全く理解していない証左であるわけなのであります。
時流や社会、世界の潮流に合わせてとか、色々と理由をグダグダと述べ立てても、それは、理由、根拠には全くならないのであります。
冒涜とまではならなくても、宗祖の思想、教義への疑義を呈していることになるわけであります。
仏性論については、そもそも悟りへと向けた自力的あり方の根拠となる仏性の存在は否定されるものであり、あくまでも成仏は、法性法身阿弥陀如来との一如、一味において成されるものであるため、自分の側における仏性があるのかないのかは、一切関係がないことで、仏性論は、否定的な無記に近い立場となるのであります。
もちろん、輪廻にあり、煩悩、無明に迷い苦しむ現実がある以上は、悟りの状態にあるわけもなく、「煩悩と悟りは本来一つ」などとも言えるわけなど全くないのであります。
百歩譲ったとして、「私の煩悩と業は、仏の力により浄化され、やがて私は仏と一如になるゆえ」ならば、十分に認められる余地はあったと思うのであります。
某論文のように、「議論の余地がない」などと述べるなど、浄土真宗も仏教も全く理解していない証左であるわけなのであります。