日記

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安土問答についての再考

2024年02月22日 | ブログ
安土問答を更に考えてみたが、では、日蓮宗側はどう答えたら良かったのだろうか。

貞安云ふ

四十余年の法門を以て、爾前を捨て、方座第四の「妙」の一字は捨つるか、捨てざるか。

法華云ふ

四十余年四妙之中には何ぞや。(40年余の説法の何処にある妙か?) 

貞安云ふ

法華の妙よ。汝知らざるか。 

(此の返答、之無く閉口す)

貞安亦云ふ 捨つるか、捨てざるか。

(尋ねし処に無言す)

当時の教判は、天台宗におけるものがベースになっているわけであるが、法華の妙は、円妙として、方便には含まれない判定にあったはずである。

方座第四の妙が、法華の妙だと言われたら、「法華の妙は、方座の妙にあらず、円教の妙である」と答えて、「捨てるにあらず」としていれば、問答はまだ続いていたと思われるのである。

法華玄義、法華玄義釈から、「法華の妙は、円教の中でも純円の妙であり、方座にあらず」と。

この問答では、日蓮宗側の三人(在家)が斬られ、詫び証文も書かされている。

もしも、当初から日蓮宗側を罰する意図で開催されていたのであれば、わざと答えようのない質問をふっかけて、答えられないところで即座に中断、判定して罰したとも見える。

要は、騒動を起こして、無礼のあった日蓮宗側の在家者を最初から懲らしめる意図であったとも言えるだろう。なぜなら僧侶は詫び証文を書かされているが、斬られず僧籍も強制剥奪とまではなっていないのである。

しかし、その場ですぐに答えられなかったはずはなく、なんだか腑に落ちないのである。

また、方座=方便と日蓮宗側に印象付けてから、第四の方座(円教)の妙は?と聞いたとすれば、え、方便の妙に法華の妙も入るの?となったのかもしれない。

本当は、方便ではなく、法華の妙は円教であり、捨てるにあらずと答えないといけないわけです。

浄土宗側の方座=方便への印象操作がうまくいったということなら、それはそれで日蓮宗側が嵌められたとも言えるのだろうが、なんとも腑に落ちない問答である、、