江戸時代の往生院の歴史で、幕府からではなくて、松平信平の個人からの朱印拝領が明らかになったのは本当に大きい。
また、大きな銅製の仏像があったことは初めて知った。
江戸時代の往生院の歴史は、檀家総代であった池島村の庄屋、富家家の古文書に詳しくあったはずながら、明治期の寺院をめぐる混乱で散逸、滅却したようである。だから、江戸期の歴史も断片を他の資料から知るだけで、詳しくは分からないのである。
地租改正による上知令での寺領没収に、神道国教化に伴う神仏分離令による廃仏毀釈、これらにより往生院も寺院放棄の波が押し寄せたのであろう…
本尊など木製の仏像や仏具などの売却は免れたが、金属製の仏像や仏具は、ことごとく売り払われたことが記されてある。
大きな銅の仏像の全容も謎である。
しかし、なんとも罰当たりなことではあるが、そのような風潮の時代にあったのだろう。
廃仏毀釈で廃寺になった寺院も多い。往生院も廃寺寸前になりかけていたわけである。
そして、明治期最後の政譽住職の努力も実らず、ついに無住となってしまうのである。
この南木会趣意書は、結局、頓挫したとはいえ、明治政府に正式に提出した公文書で有り難い資料であった。
松平信平を通じて、後南朝とも繋がったのは大きい。
美作後南朝の抹殺された歴史を供養の意で見直さねばならない。
また、大きな銅製の仏像があったことは初めて知った。
江戸時代の往生院の歴史は、檀家総代であった池島村の庄屋、富家家の古文書に詳しくあったはずながら、明治期の寺院をめぐる混乱で散逸、滅却したようである。だから、江戸期の歴史も断片を他の資料から知るだけで、詳しくは分からないのである。
地租改正による上知令での寺領没収に、神道国教化に伴う神仏分離令による廃仏毀釈、これらにより往生院も寺院放棄の波が押し寄せたのであろう…
本尊など木製の仏像や仏具などの売却は免れたが、金属製の仏像や仏具は、ことごとく売り払われたことが記されてある。
大きな銅の仏像の全容も謎である。
しかし、なんとも罰当たりなことではあるが、そのような風潮の時代にあったのだろう。
廃仏毀釈で廃寺になった寺院も多い。往生院も廃寺寸前になりかけていたわけである。
そして、明治期最後の政譽住職の努力も実らず、ついに無住となってしまうのである。
この南木会趣意書は、結局、頓挫したとはいえ、明治政府に正式に提出した公文書で有り難い資料であった。
松平信平を通じて、後南朝とも繋がったのは大きい。
美作後南朝の抹殺された歴史を供養の意で見直さねばならない。