先のポストの続きとして・・
信心(領解)の度合いは、やはり個々人それぞれで当然に様々となります。
また、彌陀の救いは平等に垂れられてあるものですが、何をもって救いとするのかも問われるところとなります。
見仏と授記、大乗仏教ではこの二点が、悟り、涅槃へと向けての必須となります。
如来の救いとは、この二点を我々が頂く、頂けることを意味するものと考えることができます。(浄土教では、如来在世となる阿弥陀如来の浄土にて、阿弥陀如来との見仏と阿弥陀如来からの授記を頂くために、極楽への往生を目指すという教えが基本となります。)
阿弥陀如来の極楽世界も一仏国土として膨大で、三千大千世界を有しており、報土、化土、穢土等も有するところとなりますが、如来在世であるため、見仏と授記は可となってあると言える世界であり、穢土上であっても応身の教えを受けることも可となるはずであります。(それは、娑婆でのかつての最勝応身の釈尊のように。)
報土では、もちろん、阿弥陀経の世界が展開されてあると言えるでしょう。
それらのいずれへの往生となるのかは、行者の機に応じての行き先と、やはりなることでしょう。もちろん行者自身における業のありようも関わる話となります。また、当然に極楽にも六道世界、そして、地獄もあるとは、随分前に一考しています。
しかし、それらはあくまでも報土以下への往生の話になるということであり、親鸞聖人の教えは、報土以上、特に法界・法海への道をお説きになられてあるということで、そのためには弥陀本願への疑心あれば、報土以上は不可であるとお示しなさられていると考えることができるものであると思うのであります。
信心獲得、信心決定が、実に難儀至極であるのは、報土以上への往生を目指すがゆえであり、やはり生半可なことでは成し得ないと考えるわけであります。(阿弥陀経にあるように善根少ない者は報土へ往生することも当然に難しいのが基本となります。)
とにかく、現在の浄土真宗は、信心を甘く見積もり過ぎている感がどうしても否めません。
だから中途半端な信心の社会性や、報恩の信心、感謝の信心を示し現せ、などとおかしい考えも出てきて、今の「新しい領解文」のような問題にもなってしまっているわけでもあります。
とにかく、そんな浅い信心を目指すのが浄土真宗の本義ではないということへの洞察も、「新しい領解文」の問題について考える際には必要である次第なのであります。
信心(領解)の度合いは、やはり個々人それぞれで当然に様々となります。
また、彌陀の救いは平等に垂れられてあるものですが、何をもって救いとするのかも問われるところとなります。
見仏と授記、大乗仏教ではこの二点が、悟り、涅槃へと向けての必須となります。
如来の救いとは、この二点を我々が頂く、頂けることを意味するものと考えることができます。(浄土教では、如来在世となる阿弥陀如来の浄土にて、阿弥陀如来との見仏と阿弥陀如来からの授記を頂くために、極楽への往生を目指すという教えが基本となります。)
阿弥陀如来の極楽世界も一仏国土として膨大で、三千大千世界を有しており、報土、化土、穢土等も有するところとなりますが、如来在世であるため、見仏と授記は可となってあると言える世界であり、穢土上であっても応身の教えを受けることも可となるはずであります。(それは、娑婆でのかつての最勝応身の釈尊のように。)
報土では、もちろん、阿弥陀経の世界が展開されてあると言えるでしょう。
それらのいずれへの往生となるのかは、行者の機に応じての行き先と、やはりなることでしょう。もちろん行者自身における業のありようも関わる話となります。また、当然に極楽にも六道世界、そして、地獄もあるとは、随分前に一考しています。
しかし、それらはあくまでも報土以下への往生の話になるということであり、親鸞聖人の教えは、報土以上、特に法界・法海への道をお説きになられてあるということで、そのためには弥陀本願への疑心あれば、報土以上は不可であるとお示しなさられていると考えることができるものであると思うのであります。
信心獲得、信心決定が、実に難儀至極であるのは、報土以上への往生を目指すがゆえであり、やはり生半可なことでは成し得ないと考えるわけであります。(阿弥陀経にあるように善根少ない者は報土へ往生することも当然に難しいのが基本となります。)
とにかく、現在の浄土真宗は、信心を甘く見積もり過ぎている感がどうしても否めません。
だから中途半端な信心の社会性や、報恩の信心、感謝の信心を示し現せ、などとおかしい考えも出てきて、今の「新しい領解文」のような問題にもなってしまっているわけでもあります。
とにかく、そんな浅い信心を目指すのが浄土真宗の本義ではないということへの洞察も、「新しい領解文」の問題について考える際には必要である次第なのであります。