平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ルクソールの絵(5)

2006年06月11日 | Weblog
翌6月4日は富士聖地の行事の日でした。バスがいつもより早めに着いたので、9時の祈りに間に合いました。本館道場に入ると、いつもは私は左側にすわるのですが、その日は右側にすわりました。そちらのほうがすいていて、何となくすわりやすそうな感じがしたのです。

祈りが終わると、札幌のIさんが私に声をかけてくれました。私のすぐうしろにすわっていたのです。

Iさんはこう言いました。

「昨晩、非常にリアルな、あまりにもリアルな夢を見たんですが、その中にNさん、あなたが出てきたんです。私とNさんは二人で、小舟で海の上にいました。周囲には多くの船があり、その船から機関銃で私たちをいっせいに射撃してくるんです。ところが、二人のまわりにはバリアのようなものがあり、大部分の弾はそこではじかれて、全部海に落ちてしまうんです。一発だけNさんの体にあたりました。このあたりです(と言ってIさんは左のわき腹あたりを指差しました)。するとNさんは、《こんなもの大したことないんですよ》と言いました。すると、その弾が体から出てきて、ぽろりと下に落ちたんです。あまりにも不思議な夢でした」

Iさんとは長年のおつきあいですが、北海道と首都圏と離れていて、普段はIさんのことを考えることはありません。ましてや、自分がIさんの夢に出ようなどと思ったことはありません。普段すわるはずのない位置にすわり、Iさんに会ったことは不思議です。

Iさんの夢の話を聞き、これは前日の浄めのことを教えてもらったような気がしました。

私はあまり恐怖心は出ないほうなのです。昔、ある白光の会員さんが恐山に行って、その後数年間寝込んだ、という話を聞いていましたが、2004年に友人たちと恐山のお浄めをしました。恐怖心など微塵もありませんでした。恐山はたしかに幽界波動の世界でしたが、世界平和の祈りの大光明に守られ、同行者の誰もおかしくなったりしませんでした。

ところが今回、ルクソールの絵では、一瞬ひるむ想いが出ました。そういう弱気のために、友人たちにも応援を依頼する気になったのでしょう。それが心の隙になったのだと思います。それは肉体の上には左足首の痛みという形で出現し、Iさんの夢の中では、弾丸が一発あたるという形に現われたのでしょう。

応援を頼んだ友人は誰も来ることができず、結局、私ひとりで浄めなければなりませんでした。そして浄めることができたのです。これはやはり私が責任をもって果たさなければならない課題だったのでしょう。

今回学んだことは、世界平和の祈りを祈っている私たちには、どんな幽界波動であれ、恐ろしいものは何ものもなく、恐れるべきは自分の内部の恐怖心だけである、ということでした。