平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

ルクソールの絵(2)

2006年06月06日 | Weblog
Hさんはかなり高齢になり、そろそろ自分の画業も整理しなければならない、と考えました。幸い、美術館を手伝っている息子さんが、これまでの絵をすべて写真に撮影し、題名や制作年代を付けてくれることになりました。

これまで描いてきたたくさんの絵の中で、彼女には昔から気にかかる絵がありました。

Hさんはあるとき、世界の宗教の原点を描こうと思い立ち、神道、古代ギリシャの神殿、エジプトのピラミッド、スフィンクス、ルクソールの神殿の絵を描きました。五井先生を知る前のことです。神道、古代ギリシャ、ピラミッドまでは、高い波動の絵を描けたと思いました。しかし、スフィンクスの絵には、人間の苦悶の顔が浮かび上がっているような気がしました。展覧会でその絵を見たある霊能者から、「あなたはこの絵を描くことによって、古代エジプト人を救ったんですよ」と言われたそうです。

彼女は、観光ツアーに加わって、ピラミッドからルクソールの王家の谷に行きました。ここは、有名なツタンカーメンなど、古代エジプトの歴代の王の墓があるところで、エジプトの観光名所の一つです。

バスがルクソールについた途端、Hさんは激しい腹痛に襲われ、外に出ることができなくなりました。しばらくバスの中で一人で寝ていたところ、少し楽になったので、外に出て神殿や山の風景を見ました。彼女はそこに幽界の波動を感じて、ぞっとしたといいます。

帰国後、彼女はエジプトの絵を多数描きましたが、ルクソールの絵も何枚か描きました。自分で描いたというよりも、描かされたというべきでしょう。その絵には、彼女がルクソールで感じた幽波動がこもっていて、自分でも見るのが恐ろしいので、一度展示したきり、押し入れの奥に押し込んでしまいました。

彼女は、「ルクソールの絵にこもった幽波動はいまだ浄化されていない。自分の美術館は時々暗い波動に覆われることがあるのだが、これはあのルクソールの絵のためではないかと思う。自分が死ぬ前に、その絵をなんとかして浄め、おたきあげして、この世から消滅させておかなければならないと思うのだが、自分一人の力では、とうていあの絵を浄化することはできない。どうしたらよいものだろうか」という相談を私に持ちかけてきたのです。

彼女の手紙を読んだとき、私はとても嫌な波動を感じ、同時に、今は亡くなった白光真宏会の瀬木前理事長から昔聞いた話を思い出しました。



ルクソールの絵(1)

2006年06月05日 | Weblog
和田義彦なる人物の絵画盗作にはあきれました。このような人物の絵を高く評価し、芸術選奨の文部科学大臣賞をはじめ、数々の賞を与えた人々の目も節穴だったということでしょう。

日本人は権威に弱いところがあります。自分の目で作品を鑑賞するのではなく、「○○賞」なる賞によって作家を格付けする傾向があります。そういう賞を取るには、東京藝術大学に入学し、○○先生のもとで学び、○○会に入り、展覧会に出品し・・・というキャリアが必要なようです。そういうキャリア・コースとは無縁で、独自の道を歩み、独自の世界を築いている芸術家は、なかなかそういう賞には恵まれません。

私の知人のHさんもそういう画家の一人です。Hさんは墨を使った抽象画を描きます。彼女の絵は世界中で唯一独自のオリジナルなものです。彼女はドイツではかなり評価され、大きな美術館で何度か個展が開かれたこともありますが、日本の画壇ではまったく無名の存在です。

私がHさんと初めて会ったのは、1989年ころ、千葉県市川市の、今はなくなった白光真宏会聖ヶ丘道場です。

仏教の勉強をしていたHさんは(彼女の絵は禅僧の水墨画に通じるところがあります)、宗教書の読書の過程で五井先生の本に出合い、聖ヶ丘道場を訪れたのです。その日の聖ヶ丘道場の統一(瞑想)で、目の前に五井先生が現われ、「よくいらっしゃいましたね」と言葉をかけてくださったとのことです。

この体験からもうかがわれるように、Hさんはかなり霊的に敏感な体質の方です。彼女の絵は、現実の世界の具象ではなく、彼女がキャッチした霊的波動の描写であるのです。

Hさんのご主人も画家でした。ご主人は戦艦榛名の生き残りで、多くの戦友を戦争で失いました。ご主人は戦争をテーマにした絵を描き、生涯、絵画を通して戦友たちの鎮魂と世界平和を祈りました。

お二人はご自分たちの絵を展示し、また無名のすぐれた作家に発表の場を提供する美術館の建設を目指しました。ご主人が亡くなった2年後の2001年に、国立市の住宅街に美術館が完成しました。


復活(2006年5月号)

2006年06月01日 | バックナンバー
 四月四日に日本テレビ系列で放映された「たくさんの愛をありがとう」というドラマは、先間(さきま)敏子さんという方の同名の本(ごま書房)に基づいている。

 スクールカウンセラーをしていた先間さんは、五〇歳ころ、突然、足に激痛をおぼえた。病院での詳しい検査の結果、ユーイング肉腫という特殊な病気であり、余命一年と診断された。こういう告知を受ければ精神的なショックは大きい。先間さんも最初は落ち込んだようである。また、手術や放射線や抗ガン剤などの治療はたいへん苦しかったようである。にもかかわらず、先間さんは常に明るく前向きに、残されたいのちを生ききった。その勇気ある生き方が周囲の人々に深い感銘を与え、本の出版、そしてテレビドラマ化へとつながったのである。

 ドラマでは描かれていなかったが、先間さんの根底には強い信仰心があった。鹿児島県に生まれ育った先間さんが子どもの頃から心の支えにしたのは、「川辺の神様」と呼ばれる老人であった。この方は悩める人々の相談相手になり、多くの人を救っていたいう。先間さんはこの「神様」についてこう述べている。

 「順番がきて、対座すると、妙に気が落ち着き、安らかさを取り戻すのです。耳は不自由ですが、心眼、巌も通す神通力を持った仙人のような方でした。おじいさんは、最後にいつも言いました。《あいがとうごわっすと感謝しやはんせ。そいで物事は必ず解決しもっす》」

 先間さんは、苦境や病気の中にあっても常に感謝の心を持つことによって、それを乗り越えることができた。そしてやがて、世界平和の祈りを知った。

 「国連に加盟している国の名前を一つひとついい、各国の平和を祈るのです。合掌して、二百に及ぶ国々の平和を祈るうちに、なんだか涙が出てきて、止まりません。川辺の神様の合掌と祈念でずいぶんエネルギーをいただきましたが、自分の祈りもまた天に通じて、世界に通じるのだと、実感した瞬間でした」

 日常生活の中でも世界平和の祈りを祈るうちに、先間さんの心は次第に穏やかにやさしくなった。

 不治の病になっても、先間さんが不動心で、常に家族や教え子への思いやりを失わないでいたのは、霊としての自己の生命の永遠性を確信していたからに違いない。

 「人の幸福を祈ることは、自らもまた素晴らしい幸福感に包まれることでもあります。その朝の心からの長い祈りで、私のあらゆるものに対する執着は、拭い去られたような気がして、爽快でした。なぜか手帳に《復活》という文字を書き記しました」

 先間さんは、肉体を脱ぎ捨て、霊の世界へと復活したのである。