平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(9)

2005年12月10日 | 三島由紀夫について
 さて、『英霊の声』で、二・二六事件の将校らの次に神主=霊媒に憑依してくるのは、まさに神風特攻隊の死者たちです。彼らは、二・二六事件関係者(兄神)のあとに死んだので、「第二に裏切られた霊」、「弟神」と呼ばれています。

 死を覚悟した出撃前の心境を、特攻隊員の霊はこう語っています。

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『陛下は神風特別攻撃隊の奮戦を聞こし召されて、次の御言葉を賜わった。
《そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやったと》』
 そして飛行長はおごそかにつづけた。
『この御言葉を拝して、拝察するのは、畏れながら、我々はまだまだ震襟(しんきん)をなやまし奉っているということである。我々はここに益々奮励して、大御心を安んじ奉らねばならぬ』
 われらは兄神のような、死の恋の熱情の焔は持たぬ。われらはそもそも絶望から生れ、死は確実に予定され、その死こそ『御馬前の討死』に他ならず、陛下は畏れ多くも、おん悲しみと共にわれらの死を嘉納される。それはもう決っている。われらには恋の飢渇はなかった。
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 彼らは、「兄神」=二・二六事件の青年将校らのように、天皇に否認されたわけではありません。「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった」という天皇陛下のお言葉には、特攻隊員への深い悲しみがあふれています。「陛下は畏れ多くも、おん悲しみと共にわれらの死を嘉納される」のでありますから、彼らには、二・二六事件将校らの満たされぬ恋の苦しみはありません。

 しかし、青年たちが特攻攻撃という壮絶な死を遂げるにあたっては、その死を根拠づける宗教的信念が必要です。それは、天皇は神である、という教義です。

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 しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いていて下さらなくてはならぬ。そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、われらと歴史とをつなぐ唯一条の糸があるからだ。そして陛下は決して、人の情と涙によって、われらの死を救おうとなさったり、われらの死を妨げようとなさってはならぬ。神のみが、このような非合理な死、青春のこのような壮麗なによって、われらの生粋の悲劇を成就させてくれるであろうからだ。そうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだろう。われらは戦士ではなく、闘技場の剣士に成り下るだろう。神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬことになるだろう。
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 こうして彼らは、天皇は神であると信じて、その命を天皇陛下に捧げました。しかし、彼らが期待した「神風」は吹かず、日本は惨めにも敗戦の辱めを受けました。「神界」に行った「弟神」たちは、なぜ神風が吹かなかったのか、と疑問に思います。

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 日本の現代において、もし神風が吹くとすれば、兄神たちのあの蹶起の時と、われらのあの進撃の時と、二つの時しかなかった。その二度の時を措いて、まことに神風が吹き起り、この国が神国であることを、自ら証する時はなかった。そして、二度とも、実に二度とも、神風はついに吹かなかった。
 何故だろう。
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 彼らの結論は、天皇陛下ご自身が国体を裏切ったから、というものです。天皇の裏切りは、昭和21年1月1日に出された詔勅、いわゆる「人間宣言」にも現われている、と彼らは言います。

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 ……今われらは強いて怒りを抑えて物語ろう。
 われらは神界から逐一を見守っていたが、この『人間宣言』には、明らかに天皇御自身の御意志が含まれていた。天皇御自身に、
『実は朕は人間である』
 と仰せ出されたいお気持が、積年に亙って、ふりつもる雪のように重みを加えていた。それが大御心であったのである。
 忠勇なる将兵が、神の下された開戦の詔勅によって死に、さしもの戦いも、神の下された終戦の詔勅によって、一瞬にして静まったわずか半歳あとに、陛下は、
『実は朕は人間であった』
 と仰せ出されたのである。われらが神なる天皇のために、身を弾丸となして敵艦に命中させた、そのわずか一年あとに……。
 あの『何故か』が、われらには徐々にわかってきた。
 陛下の御誠実は疑いがない。陛下御自身が、実は人間であったと仰せ出される以上、そのお言葉にいつわりのあろう筈はない。高御座(たかみくら)にのぼりましてこのかた、陛下はずっと人間であらせられた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たったお孤りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。
 それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
 だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだった。何と云おうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだった。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきわみにおいて、正に、神であらせられるべきだった。それを二度とも陛下は逸したもうた。もっとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
 一度は兄神たちの蹶起の時。一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、陛下が決然と神にましましたら、あのような虚しい悲劇は防がれ、このような虚しい幸福は防がれたであろう。
 この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の魂を失わせ玉い、二度目は国の魂を失わせ玉うた。
 御聖代は二つの色に染め分けられ、血みどろの色は敗戦に終り、ものうき灰いろはその日からはじまっている。御聖代が真に血にまみれたるは、兄神たちの至誠を見捨てたもうたその日にはじまり、御聖代がうつろなる灰に充たされたるは、人間宣言を下されし日にはじまった。すべて過ぎ来しことを『架空なる観念』と呼びなし玉うた日にはじまった。
 われらの死の不滅は涜(けが)された。……
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 ここには、驚くべき歴史観が表明されています。それは昭和天皇の2度にわたる裏切り・過ちが、昭和史のすべての悲惨の原因である、という歴史観です。

 昭和天皇は時々、左翼陣営から戦争責任者として非難されました。天皇が開戦に反対していれば、日米戦争は回避できたはずであり、天皇の命令なしには戦争は起こりえなかった、そしてアジア各地の戦争犯罪は天皇の命令で行なわれた、だから天皇が戦争の一切に責任がある、天皇は戦争犯罪人である、という非難です。その典型は、NHKの番組改変問題で話題になった「女性国際戦犯法廷」(バウネット)です。

※バウネットの主体は北朝鮮系の団体であることが明らかになっています。

 『英霊の声』は、これとはまったく異なった形で、天皇を戦争責任者として非難しています。昭和天皇の国体への2度の裏切りが日本の戦争と敗戦を招いた、というのです。こういうことを明言したのは、後にも先にも三島由紀夫しかいません。戦前的な言い方をすれば、これは明らかに、天皇陛下に対する「不敬」です。このことを、三島を尊皇家・愛国者として高く評価する右翼天皇主義者はどう見るのでしょう?