平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(7)

2005年12月07日 | 三島由紀夫について
 青年将校らが牢獄に入っているとき、「日本もロシヤのようになりましたね」という天皇の言葉が彼らに漏れ伝わってきました。

 これは、自分たちを共産主義者と同一視する言葉として、青年将校らに衝撃を与えました。磯部浅一は「獄中日記」にこう書いています。

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 陛下が私共の挙を御きゝ遊ばして、
「日本もロシヤの様になりましたね」と言ふことを側近に言はれたとのことを耳にして、私は数日間気が狂ひました。
「日本もロシヤの様になりましたね」とは将(はた)して如何なる御聖旨か俄(にわ)かにわかりかねますが、何でもウハサによると、青年将校の思想行動がロシヤ革命当時のそれであると言ふ意味らしいとのことをソク聞した時には、神も仏もないものかと思ひ、神仏をうらみました。
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 『英霊の声』では、「このお言葉を洩れ承った獄中のわが同志が、いかに憤り、いかに慨き、いかに血涙を流したことか!」と書かれています。

 青年将校らの想いと昭和天皇のお考えは、最初から最後まですれ違いでした。そもそも事件勃発のとき、天皇は、

「朕が股肱(ここう)の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等その精神に於て何ら恕(じょ)すべきものありや、と仰せられ、又、朕が最も信頼せる老臣を悉(ことごと)く倒すは、真綿にて朕の首を締むるに等しき行為と漏らさる。」(本庄繁日記)

とおっしゃいました。青年将校らが殺戮した「醜き怪獣」は、天皇陛下にとっては「股肱の老臣」、もっとも頼りにする臣下だったのです。憲法を守る天皇は、法を無視した暴力を断じて認めることはできませんでした。

 そして、反乱軍への対処をめぐって軍当局の意見が割れ、事態収拾が進まなかったとき、陛下は、

「朕自らが近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当たらん」(本庄繁日記)

とまでおっしゃったのです。天皇陛下の断固たる意志によって、軍の一部には同情を集めていた蹶起軍は賊軍と見なされ、鎮圧されたのです。

 これは、天皇への「恋闕の情」によって、命を捨てても昭和維新を目指した青年将校らにとっては、青天の霹靂、思いもかけない無惨な結末、まさにどんでん返しとしか言いようのない「天皇の裏切り」だったのです。

 「天皇の裏切り」を知った磯部浅一は、死の直前まで、天皇を呪い続けます。

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 だが私も他の同志も、何時迄もメソメソと泣いてばかりはゐませんぞ、泣いて泣き寝入りは致しません。怒つて憤然と立ちます。
 今の私は怒髪天をつくの怒りにもえてゐます。私は今は陛下を御叱り申し上げるところに迄、精神が高まりました。だから毎日朝から晩迄、陛下を御叱り申してをります。
 天皇陛下何と言ふ御失政でありますか、何と言ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ。(「獄中日記」)
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 処刑のとき、多くの青年将校は「天皇陛下万歳!」を叫んで銃殺されました。しかし、磯部浅一と、もう一人の首謀者・村中孝次は、無言のままでした。彼らは、「天皇陛下万歳!」を唱える気になれないほど、天皇を憎んでいたのです。このような強い怨念をだいた人間は、死後、仏教的に言えば成仏できず、地上を徘徊する地縛霊になります。

 この呪詛は『英霊の声』では次のように述べられています。

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 かくてわれらは十字架に縛され、われらの額と心臓を射ち貫いた銃弾は、叛徒のはずかしめに汚れていた。
 このとき大元帥陛下の率いたもう皇軍は亡び、このときわが皇国の大義は崩れた。赤誠の士が叛徒となりし日、漢意(からごころ)のナチスかぶれの軍閥は、さえぎるもののない戦争への道をひらいた。
 われらは陛下が、われらをかくも憎みたもうたことを、お咎めする術(すべ)とてない。
 しかし叛逆の徒とは! 叛乱とは! 国体を明らかにせんための義軍をば、叛乱軍と呼ばせて死なしむる、その大御心に御仁慈はつゆほどもなかりしか。
 こは神としてのみ心ならず、
 人として暴を憎みたまいしなり。
〔・・・・〕
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし。
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 まさにこれは、天皇に裏切られ、賊軍として処刑された、磯部らの無念の想いそのままです。ここには、三島由紀夫の文学的修辞を超えた、いまだ行くべき階層に行くことができない地縛霊の怨念が感じられます。『文藝』の編集長の寺田博氏が、「原稿をもらって怖かった」と言ったのも、むべなるかなです。