平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(11)

2005年12月14日 | 三島由紀夫について
 三島ともあろう知識人が、こんなに妄想に陥るとは信じられないほどです。いいえ、日本の敗戦にこんな狂信的な理由づけを行なっているのは、三島ではなく、その背後にいる憑依霊に違いありません。それははたして特攻隊員の霊でしょうか?

 物語ではたしかに特攻隊員が語っていることになっていますが、しかし、物語全体は磯部浅一によって書かれているのです。そもそも、特攻隊員の告発は、磯部の告発――

(2)日本が戦争に突入し、そして敗れたのは、天皇陛下が、正義軍であるわれわれを叛乱軍と見なし、「ナチスかぶれの軍閥」=統制派に味方したときに、国の大義が崩れ、国体が汚されたからである。したがって、日本の敗戦は天皇陛下の責任である。

という告発とまったく同じです。すなわち、「川崎君」(神主=霊媒)に憑依しているのはいかにも「弟神」=特攻隊員のように見せかけていますが、その実体は磯部浅一らに違いありません。

 磯部が言いたいのは要するに、「お前(天皇)が俺たちを裏切ったから、日本は負けたのだ。みんなお前の責任だ」ということです。それをさらに、特攻隊員の霊になりすまして、二重に語っているだけなのです。磯部の昭和天皇への恨みはかくも深いのです。

 霊媒にもレベルがあり、高い神霊を降ろせる霊媒もあれば、幽界の浮遊霊がかかってくる霊媒もあります。『英霊の声』の「川崎君」は、磯部ら地縛霊と同調する低い霊媒です。そのような霊媒に、高い神霊は降りることはできません。

 特攻隊員の霊は本来、磯部らのレベルよりもはるかに高いところ、文字通り神界にいます。

 五井先生は戦没将兵について、『純朴の心』の中で次のように書いています。

「日本は第二次大戦で負けましたが、その戦争のために多くの将兵が、国の犠牲になったわけです。その死を無駄死であった、と今日の人たちはいいますが、私は決して無駄死であったなどとは思っておりません。一人の個人が国家という大きな存在の中に、死をかけて融けこんでいったということは、その人の魂が小さな個の魂から、大きく広く拡大されていったことなのでありまして、小さな人間が、大きな神の姿となって、神霊の世界で働くことになったということなのです。要は死んでいったその人その人の、その時の想いの在り方によるのでありまして、死ぬのは嫌だ、こんなところで死ぬのは無駄死だなどと思っていた人は、死後の世界であまり高い所にはゆけないと思いますが、真実国家のために身心を捧げる気持で昇天していった人々は、正に犠牲精神そのものでありまして、神霊の世界で大きく生きることになるのです。」(121頁)

 国家のために命を捧げた特攻隊員は高い神界で日本守護のために働く神となっている、と五井先生からうかがったことがあります。神なる特攻隊員の霊が、いつまでも天皇への恨み辛みを述べているはずはありません。『英霊の声』の「弟神」はにせものの神であり、彼らがいるという「神界」は、実は迷界なのです。

 もちろん、肉体身に執着したまま、恨みをいだいて死んだ兵も大勢いただろうと思います。そういう人々はいまだ神界に行くことができず、迷界に彷徨っていると考えられます。しかし、彼らの迷いの想いを承認し、神国妄想を根拠に昭和天皇を非難することは、彼らにとっても日本にとっても、何の益もありません。こういう迷界にいる人々をどう救済するかは、また別の問題です。

 次に「人間宣言」という第二の裏切りの問題に移ります。敗戦後も「陛下が決然と神にましましたら、〔・・・・〕このような虚しい幸福は防がれたであろう」というのは、戦後のの日本が浅薄な現世主義、唯物的な金銭至上主義におおわれたのは、天皇の「人間宣言」のせいだ、という非難です。