平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(14)

2005年12月19日 | 三島由紀夫について
 このインタビューからもわかるように、昭和天皇は、お祖父様である明治天皇を非常に尊敬していて、いつも「明治大帝」とお呼びになっています。

 昭和16年9月6日の御前会議において、昭和天皇は明治天皇の、

「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ」

という御製を読み上げ、

「余は常にこの御製を拝唱して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと努めておるものである」(近衛手記)

と仰せになったことは有名なエピソードです。昭和天皇にとって、明治天皇は常に心の指針でした。

 昭和天皇は、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条の御誓文を発して、それがもととなって明治憲法ができた」とおっしゃっていますが、これはまさに「欽定憲法」どころか、「欽定民主主義」とでもいうべき考え方で、民主主義になれた現代人の多くは、違和感をいだくと思います。さらに、「神に誓われた」という部分は、かなり神話的・宗教的で、もっと違和感があるでしょう。しかし、これは昭和天皇にとってはごく自然な発想だったのです。

 そもそも明治以降の近代天皇には、次の二つの機能があります。

(1)宮中にて神事を執り行なう神道の大祭司。
(2)近代世俗的(=非宗教的)国家における立憲君主。

 (1)は過去から現在に至るまで、変わることなく執り行なわれている天皇家の伝統行事です。しかし、(2)は明治以降になって天皇に与えられた新しい役目です。近代世俗国家は政教分離を建前としていますので、厳密に考えると、この二つの役目は矛盾します。近代天皇は、常にこの相矛盾する役割を両立させねばならないという困難な立場に置かれているのです。

 戦争末期の天皇陛下がご自分の身を犠牲にしても成し遂げねばならないと思ったのは、「赤子(=国民)の保護」と「国体護持」でした。この二つを護ることが、(1)としての天皇の「皇祖皇宗」に対する義務であったのです。

※「皇祖」とは天照大神のことで、「皇宗」とは歴代の天皇を指します。

 国民のことを「赤子(せきし)」と呼ぶのは、神道的家族国家観です。「国体」には「三種の神器」が含まれていました。「三種の神器」が失われてしまえば、「国体」も滅びるので、本土決戦は避けねばならない、と昭和天皇は考えていたのです(『昭和天皇独白録』)。これはきわめて神話的な観念であると言えます。

 結果的には、昭和天皇がこの神話的な観念を強く持っていたからこそ、終戦の御聖断を下せたとも言えます。

 三島の「などてすめろぎは人間となりたまひし」というのは、「すめろぎ」=天皇が、(1)の役割を放棄し、もっぱら(2)になってしまった、という非難であると思います。

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屈辱を嘗めしはよし、
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
陛下は人間なりと仰せらるべからざりし。
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人、神として御身を保たせ玉い、
そを架空、そをいつわりとはゆ宣(のたま)わず、
(たといみ心の裡深く、さなりと思(おぼ)すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなお奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかずき、
神〔=天皇〕のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎(いつ)き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん。
などてすめろぎは人間となりたまいし。
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 「英霊」はこのように昭和天皇を非難します。

 しかし、たとえ昭和天皇が、のちに「人間宣言」と誤って呼ばれるようになった詔書を出したとしても、神道の大祭司の役目を放棄したわけではありません。天皇が、

「祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなお奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかずき、
神〔=天皇〕のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎き、ただ祈りて」

いらっしゃることには、戦前も戦後も毫も違いはありません。皇祖皇宗の神前にて祈ることは、天皇の最も大切なお役目なのです。

 三島は、「ただ斎き、ただ祈りてましまさば、何ほどか尊かりしならん」と、あたかも昭和天皇が自分の保身のために(1)の役目を捨て、その聖性を失い、(2)になりきったかのように非難していますが、まったくの誤りです。三島もそんなことは当然知っていたはずですが、三島はこう非難をせずにはいられなかったのです。なぜなら、それは三島の背後の磯部の深い怨念から湧き出てきたものであったからです。