平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(10)

2005年12月13日 | 三島由紀夫について
 三島は、天皇の罪は、天皇が二・二六事件の蹶起将校を賊軍ととして裁いたことによって「軍の魂を失わせ」たこと(第一の裏切り)と、「人間宣言」によって「国の魂を失わせ」たこと(第二の裏切り)の二つであると言います。一度目の裏切りにより、「御聖代が真に血にまみれ」(戦争と敗戦)るという「悲劇」が起き、二度目の裏切りにより、「御聖代がうつろなる灰に充たされた」(戦後の浅薄な現世主義)というのです。

 「弟神」らのこの告発は正当なものでしょうか?

 第一の裏切りについて。三島も書いているように、「歴史に『もし』は愚かしい」ことですが、もし天皇が二・二六事件の蹶起将校を正義軍と認めていれば、「軍の魂」が守られ、それによって戦争が回避されたのでしょうか? そのようなことはまず考えられません。中国大陸をめぐる当時の日米の利権抗争が解消されない以上、いずれ日米が衝突することは不可避だったと思われます。

 日本がアメリカとの戦争を回避する唯一の道は、日本が、中国大陸から全面撤退を求めるハル・ノートを無条件で受け入れ、中国大陸の既得権益をすべて放棄することでした。それは可能だったでしょうか?

 その当時の日本人は、中国大陸の利権を、日清・日露戦争の血によって獲得したものと考えていました。日清戦争後の三国干渉によって、遼東半島を放棄せざるを得なかったことに日本人が激怒し、臥薪嘗胆を誓ったのは、そのためです。日露戦争の賠償金を取ることができなかったポーツマス条約に、日比谷焼き討ち事件が起こったのも、そのためです。文字通り血をもって獲得した利権をむざむざ放棄することは、日清・日露戦争の戦死者を冒涜することだと信じられていました。その当時の大部分の日本人にとっては、ハル・ノートを受け入れることは、戦わずしてアメリカに全面降伏することに等しかったのです。いわば、大きな借金をしてせっかく手に入れたマンションから、弁償金もなしに即座に退去してくれ、と要求されたようなものです。

 他方、アメリカも日本との戦争を強く望んでいました。その理由は、

(1)中国大陸、アジアから日本を駆逐し、米英の覇権を確立することができる。
(2)1939年9月の欧州大戦勃発に際して、アメリカは中立を宣言していました。戦況はナチス・ドイツの圧勝で、イギリスは苦境に陥っていましたが、アメリカはイギリスを支援する大義名分がありませんでした。しかも、アメリカ国民は孤立主義的で、欧州大戦への参戦に反対していました。ドイツ、イタリアと3国同盟を結んでいた日本と戦争することによって、アメリカはドイツに公然と宣戦布告することができる。

 アメリカは日独との戦争を起こすために、意図的に、日本が絶対に受け入れることができない無理な要求をつきつけたのです。これはまさに「挑発」でした。

 1937~42年、駐日イギリス大使であったロバート・クレーギー卿は、日本の提案した妥協案をアメリカが交渉の材料として取り上げていたら、日本の開戦はなかっただろう、アメリカの「最後の回答」は日本が拒否することは確実だった、という報告書をイーデン外相に提出しています。チャーチルはこの報告書を読んで怒り、日本のアメリカへの宣戦は「大きな幸運」なのだと述べています。(武田清子『天皇観の相克』)

 「軍の魂」がありさえすれば日米戦争が防がれたというのは、明治以降の歴史の流れを無視した、まったく成り立たない議論です。先に、「軍の魂」を重視する皇道派が、軍閥としては追放されても、その後も皇道派的妄想が強まり、ついには竹槍的国土防衛論や特攻攻撃にまで至ったことを見ました。「軍の魂」論は皇道派的妄想以外の何ものでもありません。

 次に、皇道派が正義軍と認められていたら、たとえ戦争になっても、「神風」が吹いて、日本が勝利したのでしょうか? そのような「確信」を特攻隊の霊たちは何によって根拠づけるのでしょうか? その根拠は、日本は神国なので、蒙古襲来のときに神風が吹いたように、今回も必ず吹くはずだ、という思い込みしかありません。それはたしかに、戦争末期に軍部や日本国民がいだいていた観念かもしれません。霊たちはその観念に固執し、その観念が現実化しなかった原因・罪を、天皇の中に求めているのです。しかし、彼らは、「日本は神国なり」「必ず神風が吹く」という観念自体が正しいかどうかを検証することはしません。

 いったい「神国」とは何でしょう? 日本の「神国」思想は、自国・自民族が他国・他民族に優越しているという、自国・自民族中心主義の一種です。このような思想は、世界中のいたるところに存在しています。中国の中華思想、ユダヤ民族の選民思想、ナチス・ドイツのアーリア民族至上主義などがそうです。こういう観念が人類の歴史上どれほど多くの災いをもたらしてきたか、はかりしれません。

 「神」が一国・一民族を特別に依怙贔屓し、他国・他民族を支配する権利を与える、という考えは、きわめて幼稚かつ自己中心的です。自国・自民族を特別に愛顧する神というのは、自民族中心主義の投影、集団的エゴイズムの実体化にすぎません。「神」なるものがあるとすれば、そういう幼稚な観念からほど遠いところに存在しているに違いありません。

 「神」とは無限なる叡智、無限なる愛、無限なる調和、無限なる生命です。そういう状態が一国の中に現われてこそ、真の「神国」と呼べるはずです。

 客観的に見て、朝鮮を併合し、中国大陸に利権を求めていた戦前の日本が、「神国」からはほど遠い状態であったことは、否定できません。日本は、アジアの解放という看板を掲げてはいましたが、実際には欧米列強に伍して植民地獲得を目指す覇道国家の一つに成り下がっていたのです。もし日本に本当に神がいるならば、軍国主義におごり高ぶっていた日本にきついお仕置きを与えるでしょう。神が神風を吹かせなかったのは、当然です。私の見方では、むしろ原爆と敗戦こそ神の厳しい愛、真の神風でしたが、これについては別に論じなければなりません。

 特攻隊の霊たちは「神界」にいるはずなのですから、高い神意、宇宙の摂理を知り、日本がどのような意味で「神国」であるのかを、もう少し語ってくれてもよさそうなものですが、そういう説明は一切ありません。彼らにあるのは、自国中心主義的な神国妄想への固着と、天皇に裏切られた恨みだけです。この霊たちは、「神界」にいると称しておりますが、彼らがいるのは低い幽界、迷いの世界なのです。