平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(5)

2005年12月05日 | 三島由紀夫について
 三島は、「エロスと大義(=死)との完全な融合と相乗作用」が、「書物の紙の上にしか実現」されることに飽きたらず、それをさらに映画という形でも表現しようとしました。彼は、自分が主演・監督で『憂国』を映画化し、その中で切腹を演じています。映画『憂国』(1966年、昭和41年4月)です。

 三島由紀夫の奥様の瑤子さんは、三島の死後、割腹事件を予告するようなこの映画を廃棄することを望んだのですが、たまたま今年になってそのネガフィルムが発見されました。

http://www.sankei.co.jp/enak/2005/aug/kiji/20mishima.html
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産経新聞 8月20日(土)東京朝刊 

作家の三島由紀夫が自らの小説を基に監督、主演などを務めた映画「憂国」(昭和41年公開)のネガフィルムが東京都大田区の三島邸から見つかったことが19日、分かった。

三島が陸上自衛隊市ケ谷駐屯地(東京都新宿区)で割腹自殺することを予告したような内容の“幻”の作品で、新潮社が刊行している「決定版 三島由紀夫全集」(全42巻)の別巻として、来春DVD化される予定。

「憂国」はモノクロ、約30分の短編。三島が選んだワーグナーなどの音楽で物語が進行し、二・二六事件をめぐり中尉が切腹する場面がある。

三島と共同で製作に当たった藤井浩明プロデューサーによると、三島が自決した翌年にあたる46年、瑤子夫人(平成7年死去)の要望で上映用のプリントは回収され焼却処分された。しかし、藤井氏がネガフィルムだけは保存するよう瑤子夫人に頼んだため、茶箱に入れ三島邸に保管された。瑤子夫人が亡くなった後の8年、藤井氏が三島邸の倉庫で捜し出した。

藤井氏は、「保存状態はほぼ完璧(かんぺき)で、運命的なものを感じる。海賊版がネットオークションなどで出回っていて、粗悪な画面だったので、いずれ発表しなくてはいけないと思っていた」と話している。

映画評論家の佐藤忠男さんの話「『憂国』は三島由紀夫の死に方を予告したような内容で、短編ながら劇場公開時は大ヒットした。三島本人が主演していて、本気でやっているかと思えば、芝居がかっているところもある。その本気と芝居っ気の間に、見ていて割り切れないものを感じる。三島の割腹自殺を解釈する鍵が含まれていると思う」
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 私はこの映画を見ていませんが、写真は見たことがあります。グロテスクな印象がありました。三島由紀夫が切腹に魅入られていたことがよくわかります。

 三島は子供のころから2・26事件の反乱軍将校を肯定的に見ていました。そのような彼が映画の中で2・26事件の青年将校を演じたということは、2・26事件の青年将校たちとの完全な自己同一化を目指した、ということになります。

 美輪明宏さんは、「霊というのは、三島さんみたいに純粋な人に取り憑きやすい」と言っていますが、これは言葉足らずです。たしかに憑依というのは、起こりやすい体質の人と、起こりにくい体質の人があります。ただし、前者の場合でも、憑依はただ一方的に起こるものではありません。憑依される側に、憑依する霊と似た波動があるからこそ起こるのです。憑依とは、いわば一種の共鳴現象です。三島の精神的・文学的遍歴を見てくると、彼の中に、2・26事件関係者の霊を招き寄せる心的波動が存在していたと言わざるをえません。

 これは私の仮説ですが、磯部浅一の三島への憑依は、すでに短編『憂国』のあたりで徐々に始まり、映画『憂国』の出演で決定的になったのではないかと思います。演ずるというのはその役柄になりきることですから、三島は演ずることによって完全に2・26事件の青年将校と合体してしまったのでしょう。その憑依によって書かれたのが『英霊の声』です。この作品は、映画『憂国』の直後に執筆され、昭和41年6月に発表されています。

※美輪さんに限らず、演劇や映画の役者さんには霊感の鋭い人が多いようです。霊視能力のある人も少なくありません。彼らの談を聞くと、歴史上の事件をテーマにした劇を演ずると、関係の霊が集まってくるようです。扱うのが悲劇的事件の場合は、演劇関係者に不幸や事故が起こると言われています。これは波動の共鳴による現象と考えられます。有名なのは『四谷怪談』の場合です。そのため、『四谷怪談』の上演の前には、スタッフが必ず神社でお祓いを受けるということです。

 芸術活動には共鳴現象がよく起こります。また、そのような共鳴現象が迫真の演技・演奏になるものと考えられます。逆に言えば、そのような共鳴現象のない芸術活動は浅薄ということにもなります。

 「憑依」というと否定的なニュアンスを含んだ語ですが、芸術活動の中では高い神霊が共鳴してくる現象もあります。五井先生は、ピアニスト、エミール・ギレリスの背後ではフランツ・リストが演奏していたし、映画『キング・オブ・キングス』の主役俳優の中にはイエス・キリストが入ってきた、と述べています。
http://www.geocities.jp/byakkou51/zuimon.htm

 「神わざ」とも呼ばれるような演奏・演技には、神界・霊界からの援助があるのでしょう。そのようなバックアップを受けるためには、もちろんたゆみない稽古が必要であることは言うまでもありません。高級神霊と波動を共鳴させるためには、日頃からの錬磨が必要なのです。これとは反対に、どのようにテクニックがすぐれていても、神界の波動との共鳴がない演技・演奏は、感動を呼ぶことはできません。それは、肉体人間の技術に過ぎないからです。その一線を超えられるか超えられないかが、天才と凡才の違いなのかもしれません。

 高級神霊との共鳴は望ましいことですが、浮遊霊・不成仏霊との共鳴は、憑依された人の運命を狂わせます。三島は、自分の美学と、二・二六事件の青年将校らへの長年のシンパシーのために、彼らの霊と共鳴し、映画『憂国』で一線を超え、そこから抜け出せなくなってしまったのです。