平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(15)

2005年12月20日 | 三島由紀夫について
 昭和天皇は、明治憲法とそれに基づく民主主義は、明治大帝の神への誓いによって定められた大切な国是である、と信じていました。まだ皇太子のころには、6ヶ月にわたりイギリス(昭和天皇はとくにイギリス王室との親善を大切にしていました)をはじめヨーロッパ諸国を歴訪し、自由と民主主義の大切さを実地に見聞していました。

 先に、近代天皇には、

(1)神道の大祭司(宗教的)
(2)立憲君主(世俗的)

という二つの機能がある、と述べました。昭和天皇は、近代立憲君主としての役割を、明治大帝の「神への誓い」に由来するものと理解することによって、この二つを統一しようとしたのです。したがって、憲法を遵守し、立憲君主としてのご自分の立場を逸脱しないことは、いわば尊い神の掟に従うことにも似ていたのです。昭和天皇は、立憲君主という世俗的義務を、あたかも宗教的・神的義務のように遂行なさったとも言えるでしょう。

 昭和天皇が立憲君主の立場を守ろうと強く意識したのは、張作霖爆死事件とその後の田中義一内閣の辞任がきっかけになっています。

 昭和3年の張作霖爆死事件は、河本大作大尉を首謀者とする軍部の謀略でした。田中首相は最初、河本大佐を処分し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりだ、と昭和天皇に奏上したのですが、閣議で河本の処分をうやむやにすることになり、その旨を天皇に奏上したところ、昭和天皇は、

「それでは前言と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」

と田中に強い語調で言ったのです。昭和天皇は謀略や嘘を心から嫌っていました。

 田中は恐れ入ってただちに辞表を提出しました。天皇の一言はそれほどの重みがあったのです。田中はその2ヶ月後に急死していますが、自害の可能性もあります。そうでなかったとしても、天皇の叱責が精神的ショックとなって、命を縮めた可能性は否定できません。田中義一の辞任後の早すぎる死に、昭和天皇は大きな衝撃を味わったことでしょう。

 この辞任事件のあと、イギリス式の立憲君主制を理想とする西園寺公望は、「天皇たる者は自分の意見を直接に表明するべきではない」と昭和天皇を戒められました。のちに天皇は、「あの時は自分も若かったから」(当時27歳)と若気の至りを反省していますが、それ以来、昭和天皇は、立憲君主として、たとえ自分の意に染まぬ案件でも、政府や軍の決定に「不可」を言わないようになったのです。

 「天皇機関説事件」でも天皇は明白に立憲君主制の立場に立っています。

 「天皇機関説」というのは、「統治権(主権)は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として他の機関の参与・輔弼(ほひつ)を得ながら統治権を行使する」という学説です。これに対立する学説は、天皇に主権があるとする「天皇主権説」でした。大正デモクラシーの時代には、天皇機関説が一般的な学説でした。

 しかし、軍部の力が増大した1935年、貴族院本会議の演説において、菊地武夫議員が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授)の天皇機関説を、国体に背く学説であるとして攻撃しました。二・二六事件の前年のことです。

 この事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に、「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言っています。つまり、自分は立憲君主であって、主権を主体的に行使する専制君主ではない、ということです。

 昭和天皇は戦後、天皇の命令で戦争を終えることができたのであれば、なぜ戦争の開始を抑止できなかったのか、という質問をたびたび受けました。つまり、天皇は、戦争の開始も終了も一存で決められる専制君主ではなかったか、という詰問です。これに対して天皇は以下のように答えています。

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 開戦の際、東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下における立憲君主として已むを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主となんら異る所はない。終戦の際は、しかしながら、これとは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまま、その裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信ずる所によりて、事を裁いたのである。(『昭和天皇独白録』)
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 天皇陛下は、「二・二六の時と終戦の時と、この二回だけ、自分は立憲君主としての道を踏み間違えた」とおっしゃっています(入江相政『天皇さまの還暦』)。政治(内閣)が機能しなくなった非常事態に、やむなく立憲君主としては行なってはならないことをしてしまった、と言うのです。しかし、この2回はまさにやむを得ざるもので、それによって昭和天皇を非難することはできません。

※二・二六事件は、立憲君主制それ自体に対する挑戦でした。しかも岡田首相は暗殺されたと思われていて(実際には助かっていた)、内閣が機能しなかったのです。終戦の時も、廟議で戦争継続派と終戦派が同数で、決断が下せなかったのです(というよりも、鈴木貫太郎首相がそういう形にもっていったというのが正確です)。天皇の決断がなければ、戦争はずるずると続き、もっと多くの日本人が死んでいたでしょうし、国体の保持どころか、敗戦後は日本もドイツと同じように米ソの間で分割占領され、戦後も悲惨な運命をたどらなければならなかったでしょう。終戦の御聖断は、日本国民を破滅の淵から救った決断でした。

 ここには、「律儀」と言えるほど憲法に忠実に立憲君主であろうとした昭和天皇のお姿を見ることができます。