平和エッセイ

スピリチュアルな視点から平和について考える

三島由紀夫と2・26事件(16)

2005年12月21日 | 三島由紀夫について
 昭和天皇は昭和21年の年頭の詔書の冒頭に「五箇条の御誓文」を掲げ、日本が戦争に敗れても、日本人が日本の伝統を決して見失うことなく、日本人としての誇りを忘れないで、民主的な平和国家の建設に邁進してほしい、と念願されたのです。「人間宣言」の部分は付録でした。しかし、付録の部分も大切なことを語っています。

 「朕と爾等国民との間の紐帯」が「単なる神話と伝説とによりて生ぜるものに非ず」、「終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ」ているというのは、天皇と国民との結びつきは「神話と伝説」だけで生じているものではない、もっと大切なものは「終始相互の信頼と敬愛」である、ということです。

 これは至極当然なお考えです。天皇家が天照大神の子孫であるという「神話と伝説」に基づいていることはたしかですが、どんなに古い「神話と伝説」があろうと、「天皇」を肯定し支持する国民がいなければ、「天皇」という制度は存続できません。昭和天皇は、「天皇」という制度について、当たり前のことをあらためて確認しているだけです。

 また、「天皇をもって現御神とし、且日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいて世界を支配すべき運命を有す」という観念を、昭和天皇は「架空なる観念」として否定しています。この観念には、先にも述べたように、幼稚な自民族中心主義が表われており、まさに否定されてしかるべきです。

 「現御神」について、昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で、

********************
 又現神〔現人神と同意味。あきつかみ〕の問題であるが、本庄だったか、宇佐美〔興屋〕だったか、私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だと云つた事がある。
********************

と語っています。まったく当たり前のことです。ですから、天皇にとっては「神格とかそういうことは二の問題」であり、「自分がはじめから持っていない神格を否定するということはどうだろうか」と思ったのです。しかし、昭和天皇が「現御神」であることを否定しても、神道の大祭司であることまでを否定したわけではありません。

 私は今回、この詔書をあらためて読み、昭和天皇の平和への願いを確認し、深く感動しました。

「旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上を図り、新日本を建設すべし。」
「我が国民が現在の試練に直面し、且徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束を全うせば、独り我が国のみならず全人類の為に、輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。」
「それ家を愛する心と国を愛する心とは我が国において特に熱烈なるを見る。今や実にこの心を拡充し、人類愛の完成に向い、献身的努力をいたすべきの秋なり。」
「我が国民がその公民生活において団結し、相より相たすけ、寛容相許すの気風を作興するにおいては、よく我が至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。かくのごときは実に我が国民が人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す所以なるを疑わざるなり。」

 ここに表われているのは、軍国主義との決別、平和国家建設の願いです。

 もし日本人が天皇陛下のお心を深く理解し、「官民挙げて平和主義に徹し」「人類の福祉と向上との為、絶大なる貢献を為す」ことに努力していたならば、世界平和に貢献する素晴らしい「新日本」が建設されていたことでしょう。しかし、その後の日本は、東西冷戦の中でアメリカの属国と化し、昭和天皇が示された高い理想を忘れ、ひたすら経済発展に邁進することになります。そこに、三島の言う「ものうき灰いろ」が始まったのですが、その原因は、決して天皇陛下の「人間宣言」にあるのではありません。