おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

投票よりも弾丸は強い。弾丸よりも・・

2007年04月20日 05時54分06秒 | 国家基本政策
米国のリンカーン第16代大統領はこういったそうです。
「投票(バロット)は弾丸(ブレット)より強い」と。
しかし、リンカーンは銃弾に倒れました。長崎市長も銃弾に倒れました。これは紛れもない事実です。だから投票が弾丸よりも強いというのは嘘です。

投票が弾丸よりも強い状態というのは、みんながそれを認めていた状態のときに初めて成り立ちます。しかし、それを認めない暴漢が彼らを殺すのです。

長崎市長が射殺されたことを受けて、社民党の福島瑞穂党首はこう言いました。
「武力で問題解決をしようとする傾向には断固抗議する」と。

武力とは相手に攻撃をさせないための力であると私は思います。行使したならば、それはもはや武力ではない。武士道の鞘の内とはこのことです。

伊藤一長市長を殺害した城尾哲弥容疑者が使用したチャカはスミスウェッソンです。鞘の内から抜いていますからこれは武力ではありません。彼の所属する水心会は、六代目山口組の直系組織ですが、この事件を反省して解散するとのことです。

武力を考える場合、山口組を例にとって考えると非常にわかりやすいので今回もここから話をします。

山口組の長崎における直参組織はこの水心会だけです。代表者は水田元久会長。水田会長は司忍山口組六代目組長の若衆でありました。

水田会長はそもそも松本敏久組長率いる松本組舎弟頭。しかし松本組長が十年程前に破門となったため、それまでがっちりと松本組長と一緒にやってきましたが、兄貴分の破門によって山口組の直参に昇格したわけです。

それで、その松本敏久組長というのは、五代目山口組の渡辺芳則組長時代からの直系若衆だったんですが、なぜ直系になったかというと、渡辺氏が五代目になる前、二代目山健組組長時代に松本組長は舎弟頭補佐をつとめていた。その前の初代山健組時代に山本健一三代目山口組若頭の直系となっていたからです。

こうして遡りますと、やくざというのは必ずどこかに源流をもっており、彼らはとくに山健系であることに誇りを持っている人たちです。

そして、これらの組織にはヒエラルキーがあります。親子の場合と、兄弟の場合と、身分が違います。そして最優先されるのは親子です。だから子分は親分に逆らっちゃいけないんですね。

でもこれがやくざの世界でも崩れてきていると思います。また、師弟制度の職人の世界なんかも、崩れてきている。実際に血の繋がった親子関係でも崩れてきている。親を名前で呼んだりする子どもも出てきています。

やくざみたいな仕事というのは、これが崩れると大変な事になります。例えば、親分が60歳、子分が20歳であったとしましょう。腕力で勝つのは20歳の子分に決まっています。でもそれをさせないものが親分に見えない力として働くわけです。これが単に組織力とか、経済力とかだけではダメです。そんなものは乗っ取っちまえば終わりですから。組織力も経済力もその子分の技量次第で親分以上になることはいくらでもできるでしょう。


つまり、ここには暴力を超える以上のパワーが親分に働いているから釣り合います。日常の親子関係だってそうです。

石原慎太郎氏が自分の著書でこのようなことを書いていました。
伸晃さん(現衆議院議員)が高校生くらいのときでしょうか、母親に何か理由は忘れましたが、かなり逆らったそうです。それで慎太郎氏は、「オマエ、俺の愛する女に何をするんだ」と言って、表に出ろといいました。伸晃さんもそれに乗って、表に出たそうでしたが、結局は伸晃氏は殴れませんでした。
慎太郎氏はもはや体力が衰えていたので内心はホッとしていたとのことでした。

慎太郎氏は、「スパルタ教育」を推進している割には、自分では息子を殴ったことがないそうです。ここに彼の本質があると思いますが、いずれにしても、高校生である伸晃氏は父親をボコボコにできるくらいの体力は有り余っているはずですが、父親を殴れなかったのは、こうした力が働いているからです。

なぜこういう家族社会が最近なくなってきたかというと、親世代が社会に対してどのようにして頑張っていくかという目標についてもっていないからだと思います。そこで子どもには尊敬されなくなるわけです。親は金さえ稼いでくれればよいとなります。こうして、団塊世代の親以降、倫理秩序ある親子関係というのが崩れていっています。

戦前は戦争に勝つために、戦後は復興のために、高度経済成長のためにと頑張ってきた段階では、まだ親にそのような力があった。だが、今はなくなった。そうなってくると、倫理性が欠如して、暴力が暴れ始めるわけです。もちろん、城尾容疑者個人の場合は、全然世代が違いますから、このことを直接言っているのではなくて、社会にそういう風潮を作ってきていると申し上げたいのです。

こういう時代になると、血も見たこともないような人間が、簡単に人を殺すことを平気で口にするようになり、人の命の重さをわからなくなってくるために、軽はずみにタカ派的なる政治思想にあこがれを持つのです。

例えば私は十代のときに、懐には必ずナイフを入れていたわけです。自分の仲間にもそうした人はあった。場合によっては使う場合もある。だが、こういう人間というのは当時はごく稀な人々、まあ不優秀というか、そういう人たちだけが所持していたのです。

しかし、現代の若者はそういうものを持っているのか持っていないのかは知らないけれども、簡単にブスっと刺してしまうような傾向があると思います。なぜなら、あまりにも喧嘩を知らないからです。

政治家にもそうした人たちばかりになって、学生時代にヘタレ野郎だった人間に限って、政治主張はタカ派的なものが多い。むしろ、若いときに血気盛んだった人間は、社民・共産にはならないけれども、まあまともな程よい程度の人が多いわけです。そして筋をきっちり通す人も多い。

つまり今のタカ派的傾向を発言を好む人というのは、とくに匿名性の高いネット上においては、いざとなれば逃げ出すようなタイプが非常に多くいるように感じます。

こういう人たちが増えると、自分の考え以外のものは皆バカであるとのモノの喋り方をするわけです。多様性を認めない社会になってくるわけです。勿論、これは護憲平和などを掲げる人にも言えます。「小泉なんて人間じゃない、安倍なんてクソだ。」これくらいのレベルにまで達してくるわけです。その表現の汚さといったらないです。

だから究極は殺してもいい・・・と、こうなるわけです。

加藤紘一氏の実家も放火で全焼しましたね。これについて加藤氏は、「言論に対する宣戦布告」ととらえているようですが、言論によって人が傷つく場合、あるいは貧困を招く場合だってあるのです。加藤氏の言論によって拉致家族が傷ついたことだってあります。加藤氏はリベラルとして途上国にいろいろなことを施した事がかえって仇になって、さらなる貧困を招いているものがたくさんあります。

つまり私は言論は、銃撃に勝るとか勝らないとかは思わない。

言論もまた銃撃などの暴力に相当する事もある。だが、普通に考えれば、ここでグー・チョキ・パーが成り立つと思うのです。

つまり言論や民主主義というものは、爆弾を打ち込まれれば、その言論すらできなくなる。だから暴力は強い。しかし、その暴力を上回るのは、倫理性であると思うのです。

知識人的な言論とかいうのは無力です。それはその人は正しいと思っているかもしれないが、別の立場の人は違うものの見方をするわけで、その言論によってある人はなきものにされる可能性もあります。だから、暴力をコントロールするのは、その上のものが尊敬されるかされないかで決まります。

現代のように、多様性を認めず、自分以外の考えは皆愚か者であると考えている自己中心社会が、これらの倫理的無秩序を作り出しています。

企業の不祥事、政治家の不祥事が出てきては、みんなでつるし上げる。そうしたことに喜びを持っているあさましい人間がどんどん増えてきています。

プラス志向の人間というのは、なぜそうした不祥事が発生するのかという根本を考えます。根本を考えない限りはどうにもならないのです。

だから平和党は、こうした不祥事に対して、つるし上げるのではなくて、不祥事の要因たる仕組みを破壊し、新たな方法を作ることを提案しているのです。

しかし、現代はあまりにもこうしたことをつるし上げる事が多い。こうした風潮は、必ず切り捨て御免社会を作ります。右側は左側に対して執拗なまでに苛め抜き、左側は右側に対して人間ではないかのように扱います。これはともに同じレベルのことをしているわけです。まさに今は、2.26事件以来のサイクルを繰り返しているのです。

これらの最下層による農民一揆、摘発型市民運動、闇の権力に対しての追究などなど、ある程度皆が満足するまでやったならば、必ず沈静化され、こうした人たちはいなくなります。なにしろ歴史のサイクルからすると、こうした人たちは、騒ぐだけ騒いで結局のところ権力の中枢に入ることはありません。これらを沈静化して、秩序社会を作るのは、つねに倫理性をもった武人によってなされているからです。


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