おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

自然主義経済が可能だとする理由

2007年03月14日 21時10分47秒 | 財務金融
当ブログのゲストブックに、自分の政治思想も国家を消滅する考えがあると書いてきた人がいた。
彼の言わんとすることは、既存の政治学の枠組みに平和党をあてはめようということだ。

彼は、レーニンが国家消滅を唱えていたことを、私が知らないのだろうと解釈して、彼はそのことを「やーい知らないんだ」的に、そのことをムキになって追求してきた。


彼にとっては、それを知っているか、知らないかが、大きな問題であると考えているようだ。

つまり平和党をレーニン主義に引っ張り込みたいということか。国家をなくすことイコール「レーニン思想」であるという既説に封じ込めたいのはよくわかる。

だが、彼は人々を幸福にするために政治を論じているのではなく、自分自身が自分のために知的好奇心を満たすための自己満足のために政治を論じているようだ。それは彼がわが党以外のブログにおいても、無礼なる態度で、コメントしているのをあちらこちらでしているからよくわかる。彼は、ほうぼうのブログで人を小ばかにしたようなものいいをしている。

このような儀礼を欠く人間は、誠実に国家の諸問題を考えることは、できはしまいだろう。

そのコメントを私が書いて以来、反省したのか、反発したのかは知らないが、彼は当ブログでの彼が書いたゲストブックを削除したようである。

頭を鍛えることに偏り、ハートを忘れた政治活動家を私はよくみてきているが、最近はとくに若年層(政治家を志す大学生や20代の政治家)に多いような気がしている。

私はつい先日、日本平和党予定党首を名乗る大泉氏とチャット討論をしたが、結局のところ、あまりにもものを知らなさ過ぎて議論にはならなかった。彼には、情熱もなかった。だが、しかし、彼は誠実であった。だから私は物足りなくても議論に応ずることができる。

だが、冒頭の某氏は、近年よく見る「政治家を志す大学生」に多い。

それから、「2ちゃんねる」などのネット上での政治討論も下劣で、チンピラ的な言い回し、自己満足に政治主張を通すだけで、世の中の幸福、便利さ、向上を考えているとは到底思えないような低レベルなる罵りあいが行われているのも多く見る。

数ヶ月前も、くだらない書き込み攻撃をされた。人間性欠如の人々が、自らの正義性を主張して、悪をさばいているという自己満足。こうしたものを得たい人が増えてきたと思う。

もう一つは、彼らの考え方が未だ、既存の政治学ないし経済学に拘束された範囲内でしか、物事を考えられないこともある。

若気の至りで行動に走る、はみ出したことをする、若いからこそ、今までの常識をぶち破る勇気すら持ち合わせていない。命を賭けるなんてことは全く無縁だろう。

自ら血も汗も流すことなく、本で読んだことを口に出したり、文書にしたりして、能書きをたれているだけだ。あまりにも知が優先していて、他人への思いやりがなくなってきている。

したがって、こういう人々が育つと人を殺すことなど、容易にできるようになってくる。息をする人間、肌と肌がぶつかりあう人間を経ずに、空論だけが先行するのはよろしくない結果を生み出す。


 たとえば現代では、科学技術が発達し、ボタン一つでいとも簡単に大量虐殺ができる。ボタンを押した人間は、その着弾点には、何千人もの内臓が飛び出した人々、両親を失った幼い子どもたちの顔をみることもなく、兵士は冷静に職務を遂行できるだろう。人種が違う、そんな低次な民族は殺しても構わないだろうという考えになり、女がいれば強姦する。次第に剥き出しの肉や骨をみてもなんとも思わなくなる。

これが戦争のパターンだ。これを知っていて、タカ派を称していた政治家はほとんど生きていない。

今の政治家では、国防積極派は、拳の喧嘩すら経験したこともなく、ただ日本が平和ボケで、「米国が主導の国際社会の秩序」に遅れているとして、現状を「ただ単に変えたい」だけのところから、人間のぬくもりを知らない教育環境が、これを生み出す。

議員の名前を列記したいが、このブログに書くとすぐヤフーやグーグルの検索で出てきてしまうのでやめておく。

 経済についても「利権」から「市場競争経済」に「ただ単に変えたい」のである。松下政経塾出身の決められた改革方程式しかしらない人ばかり。横浜市や杉並区にいる。それはそれで進んだものではあるが日本が将来的に生きていく光の方向ではない。

改革の方法は、すでに大学で教えている学問にすでにお膳立てされていて、それを実行さえすればよく、あとは詳細部について、ああでもない、こうでもないとこれまた既存の定説に基づき、小さな枠の中で話をしている。彼らにとって、それが生きがいであるのは一向に構わないのだが、社会を幸福にすることよりも、自分の理論を押し通すことが重要であると考えているからたちが悪い。


わが党は、この小さな枠からはみ出した未常識の分野に大きく足を踏み出しているため、わが党のようなものが出てくると、自分たちの常識の範囲内にある既存の学問の枠組みに無理してでも、はめたがるのだ。

はめたがること自体が、単に自分たちの知的エクスタシーを得たいというだけで、彼らは現代社会の行き詰まりを打破することは目的としていない。

私がこのブログで、政治とは全く無関係の話を書いたり、全く違う分野のブログをお気に入りにしているのも、すでに政治を知っている人の95パーセント以上は、既存の政治の考え方しかできないために、他
分野の人々を募るしかないと考えているからだ。


私は先ほど、政治家を志す大学生や、20代の政治家のほとんどが改革者にはなれないと言ったが、むしろ政治とは関係のない、あるいはこれからも自分にとっては、政治など無縁だろうと考えている20~30代の世代の人ほど、平和党の自然主義経済と善悪中毒の考え方はよく受け入れられる。「それはごく当たり前の話」という反応もけっこうあるのも事実だ。

平和党の主張が受け入れられないタイプは、政治家(世代を問わず)や経営者である。しかし、逆に「すでに経営者としての役割を終えた人」や「戦前を経験している人」などには理解されやすい。私は、平和党の考え方が、中間世代においては、なかなか理解されないということは早くから気づいていたが、最近では確信に変わりつつある。受け入れられるのは、ニート、フリーター、ごく少数の斬新な経営者、主婦、団塊世代以上の高齢者。
むしろ逆に農業に携わっている人には、なかなか受け入れられない。農薬や化学肥料を使うのはやむを得ないことというのを肌身で感じている人は、理解できないようだ。だが、それも現代経済社会のマインドコントロールにあることを知れば、理解してもらえるだろうと思う。

とにかく、今の時代は、世界観の転換を求めている。この時代に大事なことがある。それは「基本を覚えない、身につけない」ことである。

私は社員に指導するとき、マニュアルは一応あるが、これを見ないようにしろと言う。選挙のときにウグイス嬢に対しても同じようにする。いきなりマイクで喋らせて、徐々に修正していくというやり方だ。

基本ほど難しいことはない。これは掘り下げればいくらでも、探求しなければならないことになる。だから、今の目の前に突きつけられたものから処理していくようにする。基本は教わるのではなく、自分でみつけるようにする。常識というものも、基本というものも、探求すればするほど難解になる。
1+1=2 を数学的に細かく証明することは難しいのと同じだ。

だから基本などというものは後から、自分一人で考えるものなのだ。
そうでないと創造力が育たず、すでに誰かが作ったものだけに頼るようになる。そうなってくると、今までのルールはなしにしましょうと言われたときに、何も対応できなくなるからだ。

だから平和党のように、今までのルールはなしにしましょうなんてことを言われると、ムカッ腹が立つ人が多いのである。

憲法の廃止もそうだし、国連の脱退もそうだし、ほっといたら金が減るというのもそうだ。

無税国家も実現できるとしているが、これには税理士がくいっぱぐれる。

法律も簡単にしようと主張しているが、弁護士がくいっぱぐれる。

経済学も根底からひっくり返そうとしているが、経済学者は今まで学んだことはなんだったのかとなる。


日本共産党のように、今までのルールはやめて、共産主義にしましょうと言われた方が、まだ前例が、他国にはあるからマニュアルが想像できる。

平和党の場合は、政治学上にも経済学上(ごく一部にはある)にもないことをしようと言うのだから、さらに腹が立つであろう。あるいは「平和党は資本主義には反対しているから社会主義の分類にいれておけ」という暴論もよくある。

自然主義経済は我々が知的好奇心を満たすためにやっているのではなく、日本の問題を全て解決するためにはどうしたらいいのかということを考えて、到達した考え方である。目的は自然主義経済ではないからいつ放棄しても良い。

いろいろ述べたが、最も重要なことは、「自説を主張し貫き通す」ことよりも「全ての人々が貧しくなく、安全に暮らせる世の中を作る」ことにある。頭がどんなによくても心が腐っていたり、利己的なものはダメだ。したがって、自説を主張するためだけのものには、お付き合いしないが、自然主義経済よりも、納得のできる「全ての人々が貧しくなく、安全に暮らせる世の中を作る」案があるのなら、いつでもそれに乗り換えてもいい。然しながら、ここに喧嘩を売ってくる人間は、「自然主義経済は無理だ」という論破のためだけの人ばかりである。彼らの共通点は、幸福になる結論に至らせようとはしないのだ。

「日本が食糧を完全自給するのも無理」 「石油以外の方法を使ってエネルギーを自給させようとするのも無理」「平和党が政権をとるのも無理」などについて論じてくる人は数多くいた。

私は、その「無理」だとする側に立っても、論じることは可能だ。無理な理由はいくつでも挙げられる。

だが、それが何になるというのか。

可能なことを見つけ出すのが、価値観の大転換期にすべきことである。

できないというのは「今までの考え方では」できないということだ。

できないというのは「現在の事情では」できないということだ。

こうしたカギカッコに隠されている、非常に重要な部分が意図的に省略されているのである。

全て、政治でも企業でもスポーツの新技でも科学技術でも、不可能とされてきたことが可能とした努力した人間がいたからできたのである。

自然主義経済のマニフェストを今回の統一地方選挙にあわせて、各地方自治体の予算から、作ろうとしたわけだけれども、党内の諸事情によって今回は見送られた。統一地方選挙後の各地の自治体に目を向けて作成していきたい。


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