2005/5/29(日) 午後 11:40 | 平和党ブログ | その他国際情勢
平和党http://www.heiwatou.jp
今主流となっている欧米資本主義は資源を奪うことを目的としている。かたや、世界で反主流のイスラム諸国は、資源と言えば石油資源しかない。これを守ることも勿論だが、度重なる戦争は彼らの宗教的心情に起因している。戦争発端の理由が経済だけではないとしたなら、そのもう一つは思想である。
そして、その宗教的心情には反資本主義が含まれる。東洋には、西洋資本主義をとりいれながら、異なる価値観を受容できる心の広さをもっている。しかし、西アジアである中東の人々は、精神的な部分に視点を置くところは、アジアとして一緒なのだが、他のアジア地域と違って自然環境がモンスーンではなくて、自然環境の厳しい砂漠という中で培われた考え方から、自然を克服するという点が、西洋に似た価値観をもっている。また、中東地域をアジアに含まないという考え方もあり、英語で東洋はオリエントというものの、日本から見ると中東は、東洋文明ではないというものの見方も存在する。こうした他文化排除の論理をもつアラブ人がアメリカのグローバリズムや物質主義、軽々しいノリについていけないことはよくわかる。
キリスト教やイスラム教は布教や伝道といった、自国文化を他民族に強制し、伝統文化の破壊、社会の混乱をもたらした。十字軍の遠征などにその例をみることができる。さらに文化の名による侵略・征服につながった。
しかし仏教はどうであろうか。日本の仏教は最澄や空海が、自発的に中国へわたり、学んで帰ってきた。中国の僧侶が学んだ仏教もインドから押し付けられたのでもなく、自ら天竺へ経典をとりに行き、仏教は広まった。仏教以外にも、東洋に端を発した、ヒンズー教、儒教、道教なども他国に強制したことはない。自発的に他国へ行き、学び、帰国し、国内に広まったということが多い。
日本はアジア近隣諸国を欧米列強の侵略から守るということで大東亜戦争に入っていくわけだが、実質的には日本が侵略戦争をしたと言ってよい。そしてその植民地には、日本神道としての神社を置いたが、それは現地にいる日本軍人のために建てたのであって、彼らに信仰を強制したことはない。
しかし、イスラム教は東へ進み、インドをはじめとして、他国に攻め入り、信仰を強制した歴史を持っている面が我々とは文化圏が同じとはいえない。他の宗教や思想を叩き切るのである。
ビン・ラディンが犯行声明を出した、マンハッタンにおけるアメリカ同時多発事件も同様である。彼らアルカ・イーダは、イスラム原理主義を掲げ、アメリカが撒き散らす文化を有害なものと見ている。これも「神の思想」の対立が殺戮行為に走るという、なんとも矛盾した行為であり、悲劇である。欧米でも中東でも、彼らの中には信じる宗教は一つしかない。それ以外のものを許容できないという特徴がある。モーゼに十戒を授けた神も、イエスが父と呼んだ神も、マホメットがアラーと呼んだ神もすべて同じ聖書を元にしているにもかかわらず。
けれど、これに報復を加えたアメリカも、自由や資本主義を中東諸国に強制しているのである。イスラムの考えでは、女性は顔を隠し、やたらに派手な格好をしない、銀行で利子をつけない、労働の対価以外報酬をもらってはならない、などいろいろな価値観の違いがある。この対極の思想が住み分けをできなくなったときに、戦争を巻き起こす。
日本人はよく、「正月に神社へ初詣し、葬儀では仏様を拝み、クリスマスを祝う」という行動を欧米人に批判されることがあった。日本ほどでもないが、他のアジア諸国でも同じような寛容さがある。
東南アジアの場合、マレーシアでは釈迦も、イエスも、マホメットも、いずれの教祖誕生日が、国民の祝日になっている。インドネシアはイスラム教が国の宗教ということになっているが、別に何を信仰しても構わない。以前は国教がキリスト教であったり、仏教であったりしたこともある国である。
南アジアにおいて、印度ではマレーシアと同じ祝祭日に加えて、ヒンズー教の祭事にジャイナ教とシーク教の開祖ゆかりの日まで国民の休日となっているという。
宗教ではないが、東アジアに位置する中華人民共和国では、政治は社会主義で、経済は自由主義という、西洋文明の価値観にはないことをしてしまう。日本も自由主義経済を守る立場の自民党が社会民主主義経済的なことをやってきた。アジアの自由主義国は政府による福祉制度を整え、アジアの社会主義国は市場を自由化するのは右のものが左に移動し、左のものは右に移動し、その結果、どちらともつかない中道たる混合経済をめざしていく。
ソ連や東欧ならば、社会主義というものをやめたら資本主義になるという、白黒つける発想がある。東洋人には白と黒の間にたくさんの中間が考え方の中にあるが、これは白人でもなく黒人でもない黄色人種だからであるのか知らないが、一つの神という発想はあまりない。アジアの国々では白黒つけて一人を選び出すという小選挙区制が向かない理由でもある。印度ではかつての宗主国であるイギリスを手本に、白黒式の小選挙区制度を採用しているが、白黒式の二大政党ではなく多党制に自然となっている。
そして、国内に目を向ければ、日本の野党政治家や評論家は、連立政権ができるたびに、あるいは政党同士が合併するたびに野合、野合と罵るが、自由民主党と日本社会党が連立しようと、小沢自由党と日本共産党が連立しようとも、これは日本の文化であり、東洋の文化でもある。調和することで、次の政治形態が生まれるのである。学者や評論家は西洋政治学の尺度で見るので、非難するが、日本人の特質であるこの寛容さが、「調和」ということなのである。
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今主流となっている欧米資本主義は資源を奪うことを目的としている。かたや、世界で反主流のイスラム諸国は、資源と言えば石油資源しかない。これを守ることも勿論だが、度重なる戦争は彼らの宗教的心情に起因している。戦争発端の理由が経済だけではないとしたなら、そのもう一つは思想である。
そして、その宗教的心情には反資本主義が含まれる。東洋には、西洋資本主義をとりいれながら、異なる価値観を受容できる心の広さをもっている。しかし、西アジアである中東の人々は、精神的な部分に視点を置くところは、アジアとして一緒なのだが、他のアジア地域と違って自然環境がモンスーンではなくて、自然環境の厳しい砂漠という中で培われた考え方から、自然を克服するという点が、西洋に似た価値観をもっている。また、中東地域をアジアに含まないという考え方もあり、英語で東洋はオリエントというものの、日本から見ると中東は、東洋文明ではないというものの見方も存在する。こうした他文化排除の論理をもつアラブ人がアメリカのグローバリズムや物質主義、軽々しいノリについていけないことはよくわかる。
キリスト教やイスラム教は布教や伝道といった、自国文化を他民族に強制し、伝統文化の破壊、社会の混乱をもたらした。十字軍の遠征などにその例をみることができる。さらに文化の名による侵略・征服につながった。
しかし仏教はどうであろうか。日本の仏教は最澄や空海が、自発的に中国へわたり、学んで帰ってきた。中国の僧侶が学んだ仏教もインドから押し付けられたのでもなく、自ら天竺へ経典をとりに行き、仏教は広まった。仏教以外にも、東洋に端を発した、ヒンズー教、儒教、道教なども他国に強制したことはない。自発的に他国へ行き、学び、帰国し、国内に広まったということが多い。
日本はアジア近隣諸国を欧米列強の侵略から守るということで大東亜戦争に入っていくわけだが、実質的には日本が侵略戦争をしたと言ってよい。そしてその植民地には、日本神道としての神社を置いたが、それは現地にいる日本軍人のために建てたのであって、彼らに信仰を強制したことはない。
しかし、イスラム教は東へ進み、インドをはじめとして、他国に攻め入り、信仰を強制した歴史を持っている面が我々とは文化圏が同じとはいえない。他の宗教や思想を叩き切るのである。
ビン・ラディンが犯行声明を出した、マンハッタンにおけるアメリカ同時多発事件も同様である。彼らアルカ・イーダは、イスラム原理主義を掲げ、アメリカが撒き散らす文化を有害なものと見ている。これも「神の思想」の対立が殺戮行為に走るという、なんとも矛盾した行為であり、悲劇である。欧米でも中東でも、彼らの中には信じる宗教は一つしかない。それ以外のものを許容できないという特徴がある。モーゼに十戒を授けた神も、イエスが父と呼んだ神も、マホメットがアラーと呼んだ神もすべて同じ聖書を元にしているにもかかわらず。
けれど、これに報復を加えたアメリカも、自由や資本主義を中東諸国に強制しているのである。イスラムの考えでは、女性は顔を隠し、やたらに派手な格好をしない、銀行で利子をつけない、労働の対価以外報酬をもらってはならない、などいろいろな価値観の違いがある。この対極の思想が住み分けをできなくなったときに、戦争を巻き起こす。
日本人はよく、「正月に神社へ初詣し、葬儀では仏様を拝み、クリスマスを祝う」という行動を欧米人に批判されることがあった。日本ほどでもないが、他のアジア諸国でも同じような寛容さがある。
東南アジアの場合、マレーシアでは釈迦も、イエスも、マホメットも、いずれの教祖誕生日が、国民の祝日になっている。インドネシアはイスラム教が国の宗教ということになっているが、別に何を信仰しても構わない。以前は国教がキリスト教であったり、仏教であったりしたこともある国である。
南アジアにおいて、印度ではマレーシアと同じ祝祭日に加えて、ヒンズー教の祭事にジャイナ教とシーク教の開祖ゆかりの日まで国民の休日となっているという。
宗教ではないが、東アジアに位置する中華人民共和国では、政治は社会主義で、経済は自由主義という、西洋文明の価値観にはないことをしてしまう。日本も自由主義経済を守る立場の自民党が社会民主主義経済的なことをやってきた。アジアの自由主義国は政府による福祉制度を整え、アジアの社会主義国は市場を自由化するのは右のものが左に移動し、左のものは右に移動し、その結果、どちらともつかない中道たる混合経済をめざしていく。
ソ連や東欧ならば、社会主義というものをやめたら資本主義になるという、白黒つける発想がある。東洋人には白と黒の間にたくさんの中間が考え方の中にあるが、これは白人でもなく黒人でもない黄色人種だからであるのか知らないが、一つの神という発想はあまりない。アジアの国々では白黒つけて一人を選び出すという小選挙区制が向かない理由でもある。印度ではかつての宗主国であるイギリスを手本に、白黒式の小選挙区制度を採用しているが、白黒式の二大政党ではなく多党制に自然となっている。
そして、国内に目を向ければ、日本の野党政治家や評論家は、連立政権ができるたびに、あるいは政党同士が合併するたびに野合、野合と罵るが、自由民主党と日本社会党が連立しようと、小沢自由党と日本共産党が連立しようとも、これは日本の文化であり、東洋の文化でもある。調和することで、次の政治形態が生まれるのである。学者や評論家は西洋政治学の尺度で見るので、非難するが、日本人の特質であるこの寛容さが、「調和」ということなのである。
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