2005/5/29(日) 午後 11:44 | 平和党外交部会 | その他国際情勢
平和党http://www.heiwatou.jp
宗教の対立が続いているのは、イスラエル(ユダヤ)とパレスチナ(イスラム)も永い戦いである。アメリカ(キリスト教)が間に立ち、仲裁をしようとしているが、和平協定が結ばれてもテロは相次ぎ、終わるところを知らない。そもそもアメリカはイスラエルを同盟国としている以上、仲裁の資格はないはずだが、アメリカ一国で世界を支配していると思っているのでしゃしゃり出てくる。パレスチナにとって、このような仲裁を受け入れることができないのは当然である。
この戦いはお互いに自分の宗教を他に強制しているわけではないが、エルサレムという聖地を奪い合っている。お互いに、共同の地として棲み分ければよいのだが、白か黒かの発想をしたがるのでそれはできない。まして、報復に次ぐ報復で、怨念が続いている。
ユダヤ、キリスト教、イスラムという三つの宗教は、聖書(キリスト教においては旧約聖書)という一つの教典に基づいている。
時代の流れとしては、モーゼ→イエス→マホメットということになるわけだが、ユダヤはこの聖書のみで、キリスト教はこれに新約聖書がつく。イスラムにはコーランがつくのであるが、元は同じ聖書であり、一緒なのである。
彼らのうち、モーゼは十戒の中で「殺してはならない」と神の教えを伝え、イエスは「右の頬を打たれたなら左の頬もさしだせ」と説いたが、マホメットは右手にはコーランをもち、左手には剣をもったので、イスラムだけは、戦争を肯定している。聖戦ならば戦ってよいという考えである。
しかし、三人の聖者が教えたこととは無関係に、戦争は宗教を道具にし、イスラム以外も戦争をしてきた。そして、聖書の教える「目には目を、歯には歯を」というのは、仏教の発想からすると、因果応報で、攻撃したなら、その攻撃は自らに帰ってくるということになると思うのだが、彼らは武力に訴えてでも我を張る。
マホメットは、「モーゼやイエスも預言者なのだから、大事にせよ」とも教えている。三つの宗教の教義とこれらを信ずる各国の行動を見渡すと、その教義によって生きているのではなく、彼らの戦争は神という名を借りた、人間中心の自己主張だということがわかる。しかし当人たちにはわからないという、宗教の盲信によくあることである。それは、イエスに祈りを捧げていながら、戦争をすすめるブッシュ大統領にも言える。
インドとパキスタンの戦争も、そもそもはイスラム侵攻に起因している。ヒンズー教であったインドが、八世紀にアラブ人がインダス川流域に侵入し、イスラムが征服していったことに始まる。
やがてインドはイギリスの植民地となり、戦後、「インド独立の父」と称されるマハトマ・ガンジーが非暴力によって、国家独立をなすが、ヒンズー教徒とムスリムは対立を続け、回教徒(イスラム)はインドとは別に、パキスタンとして、分離して独立する。
以来、印パは三度の戦争を繰り返し、カシミール地方などでは、今もテロ活動は続いている。そして、両国は牽制しあい、お互いに核兵器を所有するようになった。
本来、国連常任理事国以外核兵器を持つことは許されない(これも勝手な話ではあるが)。しかし、インドは経済発展が望まれること、パキスタンはアメリカがタリバン制圧の際に協力したことを理由に見逃している。しかし、アメリカに歯向かう北朝鮮やイラクの場合、核保有は許されないというアメリカ天下の論理である。
この印パ戦争も宗教を発端としているが、そのうちに宗教の対立とは関係ないところで、報復が報復を呼び、自分の家族や友人が殺されたからと、その恨みを持ち、仕返しをするという泥沼の戦いになってしまう。
宗教の対立のほかに、民族の独立や自治権獲得のための戦争というのもある。これは、現代の発展途上国が、かつて植民地であったため、国境はかつての植民地支配国によって引かれていたことが原因である。
一万三千の島々、三百の民族から成り立つインドネシアでは、西部のアチェ自治州や北部のイリアンジャヤなどが独立を求めて紛争状態にいる。インドネシアはイギリス、ポルトガル、オランダなどが、植民地として奪い合っていたが、アチェ王国の場合は一貫して独立国であった。戦後に東南アジアが植民地から独立した際、インドネシア国家の一部となった。軟弱なインドネシアなどと一緒にされては困るということである。
この独立の気運は、インドネシア南部の東チモールが住民投票によって、インドネシアから独立できたため、それに続こうというものだが、これらの地域には天然ガスが埋蔵されており、いわば資源の争奪である。これを見れば国家とは資源の搾取であることがわかる。かつての大日本帝国も自国本土には資源がないため、天然ガス、石油、鉱物、ゴムなどが欲しいと東南アジアに活路を見出した。
宗教の対立にしろ、民族の独立にしろ、その背景にあるのは、自己主張か、資源の争奪ということになるが、国家というものが統治しなければ、国家が宗教に関わることもなく、資源の一部、すなわち税を国家に徴収されずにすむのである。独立を認めないのは、その国の財政によるところで、資本主義が搾取の経済であるのと同じように、国家も国民から搾取できるものはより多くしたいのである。もしも、食糧やエネルギーが、地域に関係なく、無尽蔵に産み出すことができるのならば、人々は戦争をしない。この方法を作り出していくことが新時代の技術革新であろう。
しかし、この技術革新が達成されても、宗教の対立が残っていてはどうにもならない。
そのためには、人類がお互いに自分の考えを強制しないことである。
たとえば、反米思想を持つ者であれば、アメリカに対して資本主義、グローバリズムを他国に押し付けるのはやめろと忠告すべきであるが、アメリカ自身に彼らのアイデンティティーたる資本主義をやめさせることを強要してはいけない。
アングロ・サクソンの思想は、自然の摂理には沿わないので、いずれ滅びることである。経済数学上の理論だけなら資本主義経済は成り立つが、現実の自然世界とバーチャルは違う。自然資源を元にせず、帳簿上の金銭の動きや日々の株価動向グラフに一喜一憂する資本主義はバーチャル経済である。
そして、東洋思想を主軸とした世界観が、他国を制圧や征服することなしに広まっていく時代がやってくる。この時代のため、西洋化してしまった日本を東洋回帰させる必要がある。そうでなければ、日本以外のアジアは発展するが、日本は欧米とともに没落してしまうだろう。
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宗教の対立が続いているのは、イスラエル(ユダヤ)とパレスチナ(イスラム)も永い戦いである。アメリカ(キリスト教)が間に立ち、仲裁をしようとしているが、和平協定が結ばれてもテロは相次ぎ、終わるところを知らない。そもそもアメリカはイスラエルを同盟国としている以上、仲裁の資格はないはずだが、アメリカ一国で世界を支配していると思っているのでしゃしゃり出てくる。パレスチナにとって、このような仲裁を受け入れることができないのは当然である。
この戦いはお互いに自分の宗教を他に強制しているわけではないが、エルサレムという聖地を奪い合っている。お互いに、共同の地として棲み分ければよいのだが、白か黒かの発想をしたがるのでそれはできない。まして、報復に次ぐ報復で、怨念が続いている。
ユダヤ、キリスト教、イスラムという三つの宗教は、聖書(キリスト教においては旧約聖書)という一つの教典に基づいている。
時代の流れとしては、モーゼ→イエス→マホメットということになるわけだが、ユダヤはこの聖書のみで、キリスト教はこれに新約聖書がつく。イスラムにはコーランがつくのであるが、元は同じ聖書であり、一緒なのである。
彼らのうち、モーゼは十戒の中で「殺してはならない」と神の教えを伝え、イエスは「右の頬を打たれたなら左の頬もさしだせ」と説いたが、マホメットは右手にはコーランをもち、左手には剣をもったので、イスラムだけは、戦争を肯定している。聖戦ならば戦ってよいという考えである。
しかし、三人の聖者が教えたこととは無関係に、戦争は宗教を道具にし、イスラム以外も戦争をしてきた。そして、聖書の教える「目には目を、歯には歯を」というのは、仏教の発想からすると、因果応報で、攻撃したなら、その攻撃は自らに帰ってくるということになると思うのだが、彼らは武力に訴えてでも我を張る。
マホメットは、「モーゼやイエスも預言者なのだから、大事にせよ」とも教えている。三つの宗教の教義とこれらを信ずる各国の行動を見渡すと、その教義によって生きているのではなく、彼らの戦争は神という名を借りた、人間中心の自己主張だということがわかる。しかし当人たちにはわからないという、宗教の盲信によくあることである。それは、イエスに祈りを捧げていながら、戦争をすすめるブッシュ大統領にも言える。
インドとパキスタンの戦争も、そもそもはイスラム侵攻に起因している。ヒンズー教であったインドが、八世紀にアラブ人がインダス川流域に侵入し、イスラムが征服していったことに始まる。
やがてインドはイギリスの植民地となり、戦後、「インド独立の父」と称されるマハトマ・ガンジーが非暴力によって、国家独立をなすが、ヒンズー教徒とムスリムは対立を続け、回教徒(イスラム)はインドとは別に、パキスタンとして、分離して独立する。
以来、印パは三度の戦争を繰り返し、カシミール地方などでは、今もテロ活動は続いている。そして、両国は牽制しあい、お互いに核兵器を所有するようになった。
本来、国連常任理事国以外核兵器を持つことは許されない(これも勝手な話ではあるが)。しかし、インドは経済発展が望まれること、パキスタンはアメリカがタリバン制圧の際に協力したことを理由に見逃している。しかし、アメリカに歯向かう北朝鮮やイラクの場合、核保有は許されないというアメリカ天下の論理である。
この印パ戦争も宗教を発端としているが、そのうちに宗教の対立とは関係ないところで、報復が報復を呼び、自分の家族や友人が殺されたからと、その恨みを持ち、仕返しをするという泥沼の戦いになってしまう。
宗教の対立のほかに、民族の独立や自治権獲得のための戦争というのもある。これは、現代の発展途上国が、かつて植民地であったため、国境はかつての植民地支配国によって引かれていたことが原因である。
一万三千の島々、三百の民族から成り立つインドネシアでは、西部のアチェ自治州や北部のイリアンジャヤなどが独立を求めて紛争状態にいる。インドネシアはイギリス、ポルトガル、オランダなどが、植民地として奪い合っていたが、アチェ王国の場合は一貫して独立国であった。戦後に東南アジアが植民地から独立した際、インドネシア国家の一部となった。軟弱なインドネシアなどと一緒にされては困るということである。
この独立の気運は、インドネシア南部の東チモールが住民投票によって、インドネシアから独立できたため、それに続こうというものだが、これらの地域には天然ガスが埋蔵されており、いわば資源の争奪である。これを見れば国家とは資源の搾取であることがわかる。かつての大日本帝国も自国本土には資源がないため、天然ガス、石油、鉱物、ゴムなどが欲しいと東南アジアに活路を見出した。
宗教の対立にしろ、民族の独立にしろ、その背景にあるのは、自己主張か、資源の争奪ということになるが、国家というものが統治しなければ、国家が宗教に関わることもなく、資源の一部、すなわち税を国家に徴収されずにすむのである。独立を認めないのは、その国の財政によるところで、資本主義が搾取の経済であるのと同じように、国家も国民から搾取できるものはより多くしたいのである。もしも、食糧やエネルギーが、地域に関係なく、無尽蔵に産み出すことができるのならば、人々は戦争をしない。この方法を作り出していくことが新時代の技術革新であろう。
しかし、この技術革新が達成されても、宗教の対立が残っていてはどうにもならない。
そのためには、人類がお互いに自分の考えを強制しないことである。
たとえば、反米思想を持つ者であれば、アメリカに対して資本主義、グローバリズムを他国に押し付けるのはやめろと忠告すべきであるが、アメリカ自身に彼らのアイデンティティーたる資本主義をやめさせることを強要してはいけない。
アングロ・サクソンの思想は、自然の摂理には沿わないので、いずれ滅びることである。経済数学上の理論だけなら資本主義経済は成り立つが、現実の自然世界とバーチャルは違う。自然資源を元にせず、帳簿上の金銭の動きや日々の株価動向グラフに一喜一憂する資本主義はバーチャル経済である。
そして、東洋思想を主軸とした世界観が、他国を制圧や征服することなしに広まっていく時代がやってくる。この時代のため、西洋化してしまった日本を東洋回帰させる必要がある。そうでなければ、日本以外のアジアは発展するが、日本は欧米とともに没落してしまうだろう。
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