「自由の哲学」ノート

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頑張るカント/もの自体

2014-08-01 09:23:34 | カント
wiki 「もの自体」より

言うまでもなく、この「物自体」という発想・概念は、古代ギリシャのエレア派・プラトン・アリストテレス等によって紡がれてきた「イデア・形相」ないしは「ウーシア」(本質存在)概念、また、それを継承した中世のキリスト教神学(スコラ学)における「神」概念の類、すなわち、「理性・論理でのみ接近・接触し得る実体・本質」という西洋思想史特有の伝統的発想・概念の延長線上にあるものであり、それをカントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)の枠内で表現した言葉・概念である


大陸合理論においては、こうした超越的概念に対する思索が、相変わらず素朴・野放図に行われたまま、独断論乱立の温床となり、他方で、経験に依拠するイギリス経験論では、ヒュームに至り、それは(当然の帰結として)懐疑・断念の対象となってしまった。

こうした状況に収拾を付けつつ、また同時に、この伝統的な超越的概念も擁護・救済し、「形而上学」(人間・世界の可能性・潜在性に対する想像力)を適正に復興すべく、「理性自体の吟味」を通じて、「人間は超越的概念(物自体)に対して、どこまで理性的・適正に思惟・接近し得るのか、知り得るのか」を境界策定(メタ規定)し、示そうとしたのが、カントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)である。


hasutama メモ


「大陸合理論においては、こうした超越的概念に対する思索が、相変わらず素朴・野放図に行われたまま、独断論乱立の温床となり…」

大陸=ヨーロッパ
イギリスは大陸に入らない?

合理論=演繹法が真理の探求の方法

演繹法=理性を使い内省、反省(思考にあたる?)することにより原理を捉え、そこからあらゆる法則を演繹しようとする

演繹=一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る推論方法

対義語は帰納

演繹の導出関係は前提を認めるなら絶対的、必然的に正しい

実際上は、前提が間違っていたり適切でない前提が用いられれば、誤った結論が導き出されることがある


「他方で、経験に依拠するイギリス経験論では、ヒュームに至り、それは(当然の帰結として)懐疑・断念の対象となってしまった。」

イギリス経験論の「経験」
=客観的で公的な実験、観察

☝︎イギリス経験論で言う経験とは、シュタイナーが言うような個人的経験のことではない

イギリス経験論は、
哲学的唯物論や
実証主義
と結びついており、

大陸合理主義や
認識は直観的に得られるとする、
直観主義、神秘主義、
超経験主義的なものについて
語ろうとする形而上学
と対立する


「こうした状況に収拾を付けつつ、また同時に、この伝統的な超越的概念も擁護・救済し…」

そうだったのかー
理性を批判するために批判したというより、
こんな状況を、なんとかカントかしなきゃ大変^_^;
てことで、頑張ってくれたのねー

苦しい状況、どのように頑張ったのか?

「『形而上学』(人間・世界の可能性・潜在性に対する想像力)を適正に復興すべく…」

ふむふむ…

「『理性自体の吟味』を通じて、

『人間は超越的概念(物自体)に対して、どこまで理性的・適正に思惟・接近し得るのか、知り得るのか?』

を境界策定(メタ規定)し、
示そうとしたのが、

カントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)である。」


「もの自体」=以下にメモ

1.超越的概念

2.古代ギリシャの
エレア派・プラトン・アリストテレス等によって紡がれてきた
「イデア・形相」ないしは「ウーシア」(本質存在)概念

3.上記を継承した中世のキリスト教神学(スコラ学)における「神」概念の類

↑(ルネサンス期の?)

4.理性・論理でのみ接近・接触し得る実体・本質」という西洋思想史特有の伝統的発想・概念の延長線上にあるもの

wiki 他 参照







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