「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

アンチテーゼとしての観察と思考

2013-10-12 04:30:29 | 第3章 世界認識に仕える思考
観察と思考こそは、それが意識化されたものである限り、あらゆる精神行為の二つの出発点なのである

これまで哲学者はいろいろな基本的な対立から出発した

観念と現実、主観と客観、現象と物自体、自我と非我、理念と意志、概念と物質、力と素材、意識と無意識などである

けれどもこれらすべての対立に観察と思考の対立が先行していること、これが人間にとっての最も重要な対立であることは、容易に理解できよう


いや全然容易に理解出来ない
こんなに大げさに言うけど、おかしくないだろうか
観察と思考が重要な活動だということは理解するが、この二つがなぜアンチテーゼだと言えるのかわからない
観察→思考と、一連の流れを作っている活動が(シュタイナー自身が何度もそう言っている)、なぜ対立していると言えるのか

観察と思考が、どのように対立しているのか

疑問ばかり出てきて、解決がすぐには見つからないかもしれない
とりあえず疑問に思ったことをメモしておいて、あとで答えや説明があると思われる箇所が見つかった時に、それに注目出来るための前提となるとよいと思う

自分の根本原理について語る哲学者は誰でも、概念形式をつまり思考を使用しなければならず

概念形式=思考

話が飛ぶが、概念形式、思考は植物に似ていると思う
植物には、はじめのコンセプトがあり、その形式を守って進行していく
あるパターンを厳守する植物
植物には生命というより法則を感じる
システムに浸透されていることは、生命にとって死を取り込んでいると言えないだろうか

もし私の全てがある一つだけの概念に浸透されるとしたら、人間というより一機関となってしまうだろう

概念形式=思考は、固定化すればパターン、システムとなる

シュタイナーが「本性の直覚」、「領域の発見」、「発露」などと面白い言葉の使い方をするのは、上記のようなことと関係しているのかもしれない

おまけの写真

稲穂が美しい季節になった



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